2023年4月20日木曜日

怒涛の90年代と破産を乗り越え、ロシアと関わり続ける日本人 ロシアへの温かいまなざし変わらず

https://sputniknews.jp/20230418/90-15712345.html
怒涛の90年代と破産を乗り越え、ロシアと関わり続ける日本人 ロシアへの温かいまなざし変わらず
2023年4月18日, 07:30
ロシアと深く関わってきた日本人の中でも、これほどドラマチックな人生を歩む人は珍しいだろう。ソ連時代を含め100回以上ロシアを訪問し、80歳の今でも精力的にロシアとのビジネスを進める、有限会社トライデント(大阪)代表取締役の岩佐毅さんだ。岩佐さんは90年代にソ連崩壊の影響で破産し全財産を失い無一文になりながらも、ロシアとの交流を続け、現在の会社では中古自動車部品を扱い業績を大きく伸ばしている。そのバイタリティとエネルギーの源、ロシアに対する思いについて話を聞いた。
岩佐さんは神戸市外国語大学ロシア語学科を卒業後、ロシア革命により神戸に亡命してきた白系ロシア人が経営する会社に入社。当時、日本全国に多数入港していたソ連船の船用品を供給する仕事に携わり、ロシア語に磨きをかけた。岩佐さんは、自身の行動力は、若くして挫折を経験したからだと分析する。
「私は岡山県の貧しい農家の出身で、本など一冊もないような家でした。そこで、唯一の活字だった新聞だけは隅から隅まで読んでいた。高校では恵まれた環境の同級生がたくさんいて、彼らの家には世界文学全集がずらっと並んでいたりするわけで、コンプレックスにも悩まされた。その後、受験勉強のプレッシャーでノイローゼになったこともありた。その後、一年遅れで何とか大学に進学したが、当時はアルバイトに勤しんでいたので、ロシア語は全く上達しませんでした。学費が払えなくて3年間休学したくらい。同級生との経済的な格差を目の当たりにしたこともあり、社会的疑問を抱き、社会主義・共産主義に対して、なんとなく憧れのような気持ちを抱いていた。そのことも、ロシア語を選んだ理由のひとつでした」
32歳で中古トラックを1台購入して独立開業した岩佐さんは「ジャングルの中に槍を担いで飛び込む気持ち」で自身のビジネスを始めた。岩佐さんによれば、当時、日本にソ連船は年間4000隻ほど入港していた。それらの船舶を訪問し、航海に必要とする物品の「御用聞き」をして、納品する仕事に就いた。
きめ細かい注文に対応する岩佐さんの信用は口コミで増していき、ソ連海運省の傘下の最大の黒海船舶公団から、公団の本拠地であるオデッサに招聘されるまでになった。当時のソ連では石油ガスパイプラインの敷設が盛んで、日本からも大手鉄鋼メーカー4社から大量(10年間で1千万トン)の大径管のパイプが輸出されていた。
パイプを船積みするにあたっては、ワイヤーを張って、チェーンで締め、さらに金具で固定しなければならない。ところが、航海中にこのチェーンが切れてパイプ貨物の落下事故が発生したため、数隻のチェーンや荷役資材を新しい強度を増したハイテンションのものに総替えしたいというの。この要望に、岩佐さんは完璧に応え、1億円近い商談をまとめ上げて、無事納品し更に信頼関係が深まった。
そして、業績が急成長し、一時、会社の年商は25億円にもなり、シンガポールにも拠点を設けて韓国、シンガポール、日本各地での船舶修理を行うなど、さらにビジネスの範囲を拡大させていった。更に一時ナホトカ商業港管理会社と合弁企業をシンガポールで開設して、6500トンの貨物船を所有し、海運会社も運営した。しかし、ソ連崩壊を前に、雲行きがどんどん怪しくなってきた。
「ソ連時代のビジネスはすべて顧客先が国営で、国が相手なので、先に納品して後で代金を受け取るシステムでした。しかし、時々は取引先からLC(銀行の信用保証状)が届き、貨物を船積み後、日本の銀行でLCを買い取ってもらい、決済するわけ。しかし91年8月のクーデタ未遂(ソ連保守派によりゴルバチョフ大統領が軟禁状態に置かれた)が発生後直ちに、受け取っていた総額5千万円のLCは完全に紙切れになり、日本の銀行は買い取ってくれなくなりた。直接送金してもらおうにも、ソ連政府は外貨のオペレーションを長期間止めてしまいた。先方にいくらお金があっても、送金する手段がないわけ。また、例えばある大型客船の全面改装修理の案件で、モスクワの海運省本庁で海運次官と会い、契約書に双方サインして、契約締結の祝賀パーティーまでした。そして、代金30億円のうち10億円を前払いで払う契約で、シンガポールに修理する客船が入港し送金を待っていた。しかし、3か月経っても入金がなく、もうそれ以上船を置いておけなくなって、プロジェクト自体を断念した。今では本当に考えられないことです」
そうこうしているうちに不良債権が積み上がっていき、岩佐さんの会社は破産処理に追いこまれた。全財産を失ったとき、岩佐さんは52歳になっていた。その後、数年間は、家族を養うために、廃棄バイク収集業、ガソリンスタンド給油係、運転手やガードマン、たこ焼き屋の手伝いなど、全くロシアと関係ないアルバイトをして生活費を稼いだ。「ひどい目にあわされた。もうビジネスも、ロシアとも終わりだ」と思ったという。
しかしロシア語の堪能な岩佐さんの元には時折、通訳の仕事が舞い込んできた。新潟県、島根県や富山でロシア人窃盗犯の捜査通訳をしたり、水産庁の密漁監視船に通訳として1年に数か月乗船し、サハリンや北太平洋を回ったこともあった。監視船の仕事は5年間続き、乗船中はお金を使う場所もないため再起のための資金を貯めることができた。そして、周りの友人たちの励ましも得ながら、再びロシアビジネスへの情熱が湧いてきた。最初小さな事務所から始め、紆余曲折がありながらも、今では、ロシア向け中古自動車部品の輸出をメインに営んでいる。
現在、大阪で4人のロシア人社員たちと共に働く岩佐さんのロシアへのまなざしは、厳しくも温かい。先日も社員たちと共に演劇レフ・トルストイ原作「アンナ・カレーニナ」の舞台を鑑賞し、ロシア文化に触れてきたばかりだ。
「ロシアは、人の素朴さや人間味が魅力的だし、文化レベルの高い国。初めてソ連を訪れたのはブレジネフ時代でした。レストランに席があっても入れてくれないとか、身につけているものを何でもいいから売ってくれと絡まれたりして、思っていた国とは相当違いた。こちらはソ連に憧れていたのに(笑)でもある時、日本人の観光客を案内していると、袋を腕にしたロシア人の中年女性が近づいてきたん。彼女は袋を持っていたので、きっと何か売りにでも来たのかな?と思って少し警戒した。ところが彼女は私に、『日本がだーい好き、日本人をとても尊敬しています』と2回言って、スタスタ立ち去ってしまいた。それを言うためだけに声をかけてくれたのかと思うと、私は自分が一瞬女性を蔑んだことが恥ずかしくなりた。そんなことが本当に何回もありた。その時、つくづく日本とロシアは仲良くしないといけないな、と思いたよ」

そんな岩佐さんがビジネスの他に取り組んでいるのは、執筆活動だ。岩佐さんは、日本ユーラシア協会機関紙に毎月「異郷に生きる」と題したインタビュー記事を連載中だ。それを読むと、日本に住むロシア人がいかにユニークか、(岩佐さんほどではないにしても)彼らの人生の波乱万丈ぶりがよくわかる。また、シベリア抑留者を扱ったノンフィクション「陸軍少年飛行兵西川栄吉とチョボタリョフ少佐の邂逅」(和露合本形式)も近日中に刊行予定だ。少年兵は後に、大阪で経営者となり大成功し、モスクワのセミョーノフスカヤで立派なショッピングセンターをオープンする事になる。
「少年兵と少佐、そしてその家族の友情の物語は、ぜひロシアの方に読んでもらいたい。残りの人生は、自分が若い頃に夢見た、ジャーナリズムの仕事をしたい。日本とロシアの文化、友好交流に寄与する人生を送りたいという気持ち。ただ物を売って金銭を儲けるということのみでなく、意義のある文化的なことに取り組み、世のため人のために役立つものを残していかなければと思います」と岩佐さんは笑顔で締めくくった。

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