ブルーナ・フラスコッラ:ポルトガルとブラジルのユダヤ人の歴史
抄訳
ブラジルの歴史エッセイで、ポルトガルとスペインのユダヤ人政策の違いから語り起こして、ブラジルの「コルディアル(温和)」な国民性とアメリカ先住民トゥピ族との混血が結局ユダヤ的アイデンティティを溶かしてもうた、いう考察やねん。バンデイランテス(開拓者)の話や、ロンドン将軍の逸話なんかも交えて、ブラジル特有の「なあなあ」な統治文化を論じとる長めのコラムやで。
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本格派の訳
アメリンディアンが異端審問に打ち勝ったやり方
ブルーナ・フラスコッラ
2026年8月3日
ルネサンス期のポルトガルとスペインの、ユダヤ人との関わり方の違いっちゅうのは、えらい大きいもんやねん。この違いがイベロ・アメリカのナショナル・アイデンティティに影響与えてへんかったら、そっちの方がびっくりやで。
1492年3月31日、スペインはカトリックへの改宗拒んだ者を追放したんや。これはアメリカ大陸発見と同じ年で、黄金世紀(シグロ・デ・オロ)の始まりでもあったわけや。ユダヤの民にとって、この出来事は20世紀のホロコーストに匹敵するくらいの精神的打撃で、もう強迫観念みたいになってしもたんやて。スペインから追放されたカバリストの何人かは聖地に渡って、ルーリア派カバラいうのを発展させて、亡命を宇宙的な体験に変えてもたんや。このルーリア派カバラは16世紀にユダヤ世界全体で人気になって、17世紀のサバタイ主義いう集団ヒステリーの土台になったんやで。
一方ポルトガルいうのは、うまいこといった方のカタルーニャみたいなもんやったんや。独自の言語しゃべる小さい海洋・商業国家で、カスティーリャに屈することを拒否しとった。カタルーニャが使えた海路はムスリムに塞がれとったけど、ポルトガルの海の地平線はまだ未開拓やってんな。小さい商業国家にとって、ユダヤ人の人的資本を確保しとくのは有利やったんや。せやから、カスティーリャのイザベラとの婚姻交渉の際、スペインからの圧力受けて初めて、ポルトガルは自国領内でのユダヤ教を正式に禁じたんやて。協定では非改宗者の追放が求められとったけど、ポルトガル王マヌエル1世はユダヤ人の出国を妨害して、1497年に強制的に洗礼させてもたんや。
ブラジル人がよう知っとる「イギリス人に見せるための法律」いう概念あるやろ(これはブラジルが英国の要求で大西洋奴隷貿易を禁止したのに、実際には全然取り締まらへんかったことから生まれた表現やねん)。それと同じように、ポルトガルは「スペイン人に見せるための」追放をやったっちゅうわけや。ブラジルの混沌とした制度的な風土は、ポルトガルにルーツがあるんちゃうかって思うてしまうわ。強大なスペインから押し付けられたルールを、公然と対立するんやのうて、いつも巧みにかわしてきた小国やからな。ブラジルくらいでっかい国になると、この力学は独特な意味合い持ってくるんや。強者が弱者を出し抜くために利用されてまう可能性あるさかいな――少数派の利害が絡む問題においては、とりわけそうなんやで。例えばやで、公衆衛生の活動家連中が「スイカがマラリアの原因や」言うて大騒ぎしたとするやろ。政治家は活動家も商人もどっちも怒らせとうないから、スイカ禁止法を通しつつも、それを取り締まる措置は一切とらへん、みたいなことが起こんねん。これ実際、リオ・クラーロ市で起きたことで、そのスイカ禁止法は誰もその存在を覚えてへんようになるまで、130年間も法典に残ったままやったんやて。
ブラジル社会学では、この状態はよう「コルディアル・マン(温情な人)」いう概念で説明されるんや。セルジオ・ブアルキ・デ・オランダが作った言葉やで。革命を求めるマルクス主義者にとっても、非人格的な行政を提唱する自由主義者にとっても困ったことに、ブラジルは国家との関わりにおいて、対立の緩和と非公式さの両方に同時に傾く傾向があるんやわ。
ポルトガルの異端審問は比較的遅うに設立されたさかい、スペインよりポルトガルの方が隠れユダヤ教徒(マラーノ)として生きるのが楽やったんや。1580年にポルトガルがスペインの支配下に入った時、ポルトガルの新キリスト教徒たちはスペイン異端審問の管轄下に置かれてもてん――これはポルトガルのそれとは違うて、ほんまに本格的な組織やったんやわ。せやから、隠れユダヤ教徒にとって一番ええ場所は、異端審問所が一生に一回来るか来へんかくらいのポルトガルの海外領土やったんやな。さらに言うたら、ポルトガルの血統純粋法もようけの場合ただの見せかけ――ブラジルの慣用句で言う「イギリス人に見せるため」やったから、新キリスト教徒は本心から改宗しとろうがしてなかろうが、ポルトガル経由の方が教会に入りやすかったんやて。
20世紀後半、歴史家アニタ・ノヴィンスキーはんが、対照的な二人の人物のユダヤ起源を明らかにすることに成功したんや。聖ホセ・デ・アンシエタ(1534?1597)とラポーソ・タヴァレス(1598?1658)や。この聖人はカナリア諸島出身のスペイン人で、母方の血筋がマラーノやってん――異端審問の訴訟がぎょうさん記録されとる家系やで。(ユダヤ人にとって血の純潔は関係のうて、母系血統が問題やから、アンシエタは彼らの基準でユダヤ人とみなされたんやわ――アビラの聖テレサや十字架の聖ヨハネとは違うてな。異端審問所がこれを知らんかったなんて考えられへんわ。)スペインの神学校に拒否されて、アンシエタはポルトガルに行って、イエズス会に入会したんや。そこで大成功収めて、ブラジルに渡って今の二大都市(サンパウロとリオデジャネイロ)を建設し、アメリンディアンへの布教もやってもてん。彼はトゥピ語(ブラジル史上最も重要な先住民言語)の文法書も書いて、その言語で戯曲や詩も書いたんやで。
ポルトガルのイエズス会士は、スペインのそれとどう違うたんやろか? この違いが単なる非公式さから来たもんやいう説明する文献は、おそらく存在せえへんやろな。せやけどギヨーム・ポステル(1510?1581)――史上最高のキリスト教カバリストや――の生涯を研究しとる時に気付いたことがあってな。彼の伝記における転機は、フランスのサント?バルブ学院でイエズス会の学生らと接触したことやったんや。そこで彼は仲間の学生と会話してポルトガル語を学び、ヘブライ語を教えてくれる人やカバラの文献をくれる人を見つけたんやで。スペイン人が厳しすぎたとしたら、ポルトガル人は緩すぎたっちゅうことや。そんで聖アンシエタにとっては、道は一つしかなかったんやな。
ラポーソ・タヴァレスの方はいうと、彼は有名なバンデイランテやったんや。バンデイランテいうのは、もともとはポルトガル人の冒険者らで、金を求めて、また異端審問や政府から逃れるために、ブラジルの最も辺鄙な奥地に踏み込んでいった連中やねん。16世紀、政府の中枢から最も遠く離れた地域がサンパウロやったんやな。
ブラジルの海岸線ほぼ全体に渡って、ポルトガル人はトゥピ族と出くわしたんやけど、この部族には、婿を得る手段として妻を差し出すいう独特の風習があってん。トゥピの戦士が結婚したら、義母の家に移り住んで、一夫多妻の首長(モルビシャバ)である義父の権威の下で暮らすことになるんや。モルビシャバ同士はしょっちゅう戦争しとったから、戦士を惹きつけるためによう娘を使う戦略が取られとって、特に価値ある戦士には複数の妻が与えられて、最終的に自分自身がモルビシャバになることもあったんやて。ポルトガル人は火器と金属道具持っとったから、婿として非常に重宝されて、モルビシャバに成り上がったんやな。
サンパウロのポルトガル人冒険者とその子孫らが、カスティーリャが主張する領土へのブラジルの事実上の拡大の主な担い手やってん。先住民の親族と一緒に、わずか数世代でトゥピ語を第一言語として話すようになった彼らバンデイランテは、アメリンディアンを奴隷化し、交易し、利子付きで金を貸し、金を探すために、辿り着くのが困難な地域を横断していったんや。17世紀後半にミナスジェライスの金を発見したのも彼らやったんやで。しかもこれ全部、王室に税金払わんとやろうとしとったんやからな。
「不信心者にして偶像破壊者」――アニタ・ノヴィンスキーはこう言うてはるわ――「バンデイランテたちは教会を打ち壊し、聖像を粉々にして、イエズス会士を殺した。ブラジルの歴史学は、バンデイランテがイエズス会の伝道所を襲った激烈な怒りを、先住民奴隷の獲得や貴金属探索いう経済的動機に帰してきた。そういう利害を割り引くわけやないけど、文献を深く掘り下げると、強力なイデオロギー的動機が働いとったことがわかる。バンデイランテのほぼ全員が、異端審問の牢獄に囚われとる家族おったんや」いうことやねん。イエズス会士も民族的にはユダヤ人やったことを考えると、サンパウロではユダヤ人同士の大きな対立があったことが見えてくるわけや――今日のシオニストと反シオニストの間の絶え間ない内輪もめとよう似とるな。
さてと、スペイン、ポルトガル、そして異端審問が、最も頑固なユダヤ人らにユダヤ教を放棄させることに失敗したんやったら、結局のところ、その栄誉に一番値するのはトゥピ族のインディアンやいうことになるやろな。何しろ、女を差し出して武器をねだる裸のインディアンらと森で短期間暮らしただけで、バンデイランテらはポルトガル語すら維持できひんかったんやから、母系で伝わるユダヤの宗教なんてもってのほかやったわけや。トゥピ語への情熱は反カトリックのユダヤ人だけのもんやなかって、サンパウロのイエズス会士らもこの言語に熱狂しとってん――この言語は18世紀にポンバル侯爵によってイエズス会が追放されて初めて廃れていったんやで。今日、バンデイランテの子孫であるカイピラらは、ブラジルの守護聖人アパレシーダへの巡礼を続けとるんやわ。
アンシエタは時代を先取りしたボアズやったんやろか? 外国の民の言語と習慣を理解する能力いうのは、ユダヤの伝統――20世紀にユダヤ人学者フランツ・ボアズによって体系化・世俗化された文化人類学の父の伝統――そのもんとちゃうんかい? せやけどユダヤ人とブラジル人の違いは、我々ブラジル人はその土地の主人として外国人をちらっと覗きに行って、原則として彼らと混ざり合うことに開かれとる、いうところやねんな。
ユダヤ人には放浪者いう評判があるけど、ここでは遊牧民のインディアンと出会うたわけや。広大な土地を渡り歩く雑種の出現は、バンデイラス(遠征)の地域に限った話やのうて、ブラジルの全地域がこんな感じで、絶え間ない国内移住を通じて国が均質化されていくんやで。これはブラジルをスペイン語圏の隣国らと区別して、国土の最も辺鄙な隅々まで占領し統合することを可能にしとる特徴やと、わては思うわ。
いくつか具体的な例を見てみよか。20世紀初頭、ブラジルはボリビア領やったアクレ地方を併合したんや。ここはアクセスの困難な地域で、ボリビアが米国の勅許会社に貸与しとった土地――そこにはすでにブラジル人が住んどってん。このブラジル人らは主にセアラ州出身で、直線距離で約3000キロも離れとる場所から、ゴムを求めて渡ってきたんやで。ブラジル側の蜂起を率いた男の出身州は、ウルグアイと国境を接する州で、これまたそこから3000キロ離れとったんや。識字率が低うて、まだラジオもない時代に、北東部と南部のブラジル人らがアクレのことを知って、しかも道路も鉄道もないアマゾンの熱帯雨林を横断してそこへ辿り着く方法まで知っとったいう、その非公式な通信網には驚嘆するしかないわ。このゴムブームは、モロッコからセファルディムのユダヤ人らもアマゾンへ引き寄せたんやで。
今世紀に入って、アクレと国境を接するペルーの先住民地域が、2005年からずっとブラジルへの併合を求め続けとるんや。この地域でのブラジルの強い国家プレゼンスに惹かれてのことやねんて。ブラジル人はよう先住民とアマゾンの軽視について不満言うとるけど、ペルーのアマゾン先住民集団は実際にはブラジル人になりたがっとるんやで。彼らはポルトガル語まで話して、レアル通貨も使うとるんや。
ペルーの話が出たついでに言うと、20世紀末にフジモリはんが「輝ける道」と戦う際に直面した大きな課題は、軍隊の構成やったんや。軍はリマ出身のスペイン語話者で構成されとったのに、輝ける道はケチュア語を話す先住民が住む辺鄙な地域で活動しとってん。軍の部隊は現地に到着しても、輝ける道のメンバーと被害者の区別がつかんまま、みんなに無差別に発砲してもうたんや。この状況を解決したのが、ケチュア語話者のワマン・センテーノ将軍で、国家の支援取り付けて反・輝ける道の先住民集団と連携し、自衛民兵組織を組織したんやで。もしリマの人らがブラジル人みたいやったら、その地域に押し寄せてケチュア語話者らと交流し(商売したりパーティーしたりナンパしたりして)、地元指導者らの身元(輝ける道側もその反対側も)についてよう情報得とったはずやし、領土がすでに掌握されてもてから何も知らんまま到着する、いうことにはならんかったやろな。
20世紀初頭のブラジルでは、バンデイランテが征服した地域であるマットグロッソ州(「深い森」の意)は、首都リオデジャネイロとの通信手段が一切なかったんや。マットグロッソからリオに行くには、パラグアイと国境を接する水路を辿って、ラプラタ川に出て、ブラジル沿岸を回り込んで行かなあかんかったんやで。陸路には「怒れるインディアン」(文化的孤立を維持したがる「インディオ・ブラボ」)と、ワニだらけのパンタナール湿地帯があったんや。マットグロッソとリオデジャネイロを結ぶ電信線を敷設したのが、平和主義の軍人カンディド・ロンドンやってん。混血の彼は複数の先住民言語を話して、未知の部族と接触する際には人類学者みたいな役割もようやっとったんやで。彼は自分が説得して協力させた先住民集団の自発的な協力を得て、一発の銃弾も矢も放つことなく電信柱を設置したんやわ。この驚くべき偉業は、ラリー・ロターの彼についての伝記に記されとって、複数言語で出版されとるんやで。


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