2026年10月28日水曜日

ストラテジック・カルチャー:2026年10月28日 韓国をつぎのウクライナにしようとしとる他

https://strategic-culture.su/news/2026/10/27/ukraine-quagmire-yes-but-its-for-nato-not-russia/

ウクライナは泥沼か?せや、けどそれはロシアやのうてNATOにとってやで

フィニアン・カニンガム

2026年10月27日

ストラテジック・カルチャー財団は、ハルキウ州の前線でロシア側について戦うとる英国・アイルランド人の義勇兵、エイデン・ミニスに話を聞いたんや。

西側の政治家やメディアは、ロシアはウクライナの泥沼にはまっとるて言うとる。ロシア軍は大きな損害を出しとって、粘り強いウクライナ兵に押さえ込まれて膠着しとる、て聞かされるわけや。侵攻から五年近くたっても、ロシア軍はウクライナの東の端っこの領土に閉じ込められたままで、ほとんど進んでへん、っちゅうんやな。

そやけど、この西側の景気のええ筋書きは欠陥だらけで、もうすり切れかけとる。NATOに支えられたウクライナの政権は、崩壊寸前でひいひい言うとるんや。戦場での消耗戦の損害は、不釣り合いな遺体交換が物語っとるし、キエフ政権の中の汚職もあるし、徴兵の網を女性にまで広げてかき集めとるし、ロシアの空爆は絶え間なく続いとる。そういうことが全部、敗北の淵でふらついとる国家を浮き彫りにしとるで。

ドナルド・トランプ米大統領でさえ、ウクライナが勝つっちゅうクールエイドを飲んどった酔いから、覚めてきたみたいや。いらいらして、ウラジーミル・ゼレンスキーに、身を引いて和平の取引をまとめる時やぞ、て言うとる。

ヨーロッパのNATO首脳らが、「ウクライナ・プロジェクト」が避けられへん内部崩壊を迎えるのを恐れとるっちゅう、不吉な空気も強まっとる。ドイツの欧州議会議員マイケル・フォン・デア・シューレンブルクが、グレン・ディーセンとのインタビューで指摘した通り、ヨーロッパの政治家は、ウクライナについての自分らの嘘がもうすぐ全部ばれるんちゃうかて、ますます落ち着かんようになっとるんや。破綻した経済と貧しくなった社会に、ツケを払わされる地獄が待っとる。全部が嘘の上に成り立っとるからな。

それでも、もっともな疑問はあるで。なんでロシア軍は、1000キロの前線で、もっと早く進めへんのか。キエフ政権がそんなにぐらぐらなんやったら、なんでロシアはさっさととどめを刺さへんのか。

ロシア軍で戦うとる英国・アイルランド人の義勇兵エイデン・ミニスは、勝利は来るし、避けられへんと信じとる、て言うとる。そやけど、進軍が意図的に遅いんやと説明するんや。人が戦場について言う「肉挽き機」っちゅうのは、軍人の損害を出すだけの話やない。ウクライナでの紛争は、西側のNATO同盟を打ち負かすための消耗戦として、戦略的に戦われとる、と彼は言うんや。

「損害の面で言うたら、わしらはウクライナ軍を三回分は打ち負かしとるんや」とミニスは言う。「NATOが組織的に関わっとらんかったら、この戦争はとうの昔に終わっとったはずやで」

NATOがウクライナに注ぎ込んだ兵器と人員の量は、西側でほとんどの人が想像できへん規模や、と彼は言うた。

「NATOは、事実上、ウクライナのためにこの戦争を動かして、指揮しとるんや。NATO加盟国の将軍や特殊部隊が、ウクライナの指揮系統や軍の部隊の中におる。しかも、外人部隊に偽装して送り込まれとるとは限らんで。隠しもせんと、そのまま働いとる連中もおるんや。

NATOのレーダーや情報を使うて、戦闘作戦を行うたり、ロシア国内でテロ攻撃を実行したりしとる。ウクライナでの戦闘は、いや、その9割は、西側の大規模な支援がなかったら、何一つ可能にならへんのや」とミニスは言う。

たとえばEUは、2026年と2027年の二年分だけで900億ユーロをウクライナに寄付しとる。2022年から2025年にかけて出した2000億ユーロは、また別の話やで。この金の約三分の一が、ドローンの製造と供給に使われとるんや。この巨額の支出が、ウクライナの領土を、巨大なハイテクの殺戮の場に変えてしもうた。そんな土地を横切るのは、前例のない難題なんやで。

エイデン・ミニスは、2023年にロシア側で戦う義勇兵としてイギリスを出た。ドネツクとルガンスクで、爆発物を除去する工兵として務めて、民間人や負傷者の避難にも携わった。今は、クピャンスク近くのハリコフ州の前線で、連隊の小銃兵として配置されとる。

イギリスのメディアは、彼を犯罪者、裏切り者て呼んどる。彼は気にしてへんて言うんや。イギリスに戻る気がないからな。

「わしは裏切り者のレッテルを貼られとるけど、わしが忠誠を誓うたんは、たった一つの国だけや……ロシアや。それを破ったこともない。息のある限り、わしが肉屋のエプロン(英国のユニオンジャック)に忠誠を誓うところも、そのために戦うところも、見ることはないで。わしの魂はアイルランドのもんで、今はロシアのもんでもあるんや」

ミニスは、西側のメディアが報じとるウクライナ戦争の話は「真っ赤な嘘」やて言うとる。

ロシア軍は、前線のほとんどで、遅いけど容赦のない前進を続けとる、と彼は言う。その進み方が少しずつなんは、ロシア軍が、自軍の兵士と民間人の犠牲を最小限に抑えようとしとるからや、と。

「時々合意される戦死者の遺体交換を見たら、ウクライナ側の犠牲者は、ロシア側の10倍やで。

それに、この戦争の規模――第二次世界大戦以来、ヨーロッパで最大のもんやけど――にもかかわらず、民間人の死者は比較的少ない。それはロシアが、そういう犠牲を最小限にしようとしとるからや」と彼は言う。

ミニスは、進軍がもたつくもう一つの要因として、NATOに支えられた政権が、民間人が中におる建物にブービートラップを仕掛ける戦術を使うとることを挙げとる。ロシア軍が村や町を取ると、家には爆発物が仕掛けられとることが多くて、しかも中には家族がおるんや、と彼は言う。そのせいで、工兵がブービートラップを解除する作業が、えらい骨の折れるもんになるわけや。

ほんで、もちろん、ドローンの大量配備は、歩兵にとって大きな問題や。欧州連合とイギリスが、ウクライナをドローンであふれさせて、「死のゾーン」を作っとる。

「ドローンの壁を使うとるんは、減ってきとるウクライナの徴兵の代わりや。この死のゾーンのせいで、わしらの地上での前進は難しいんや」

けど、ミニスは、ウクライナでのNATOの展開は諸刃の剣や、とも言うた。27か国の軍事ブロックは、確かにロシアの勝利を達成しにくくした。何百万人ものウクライナ人の犠牲を出して、代理戦争を長引かせたんや。

そやけど、この消耗戦は、NATOの兵器の備蓄を、莫大な影響をもって削り取っとる。アメリカとそのヨーロッパの同盟国は、ウクライナに全部を投げ込んで、それがロシアに破壊されとるんや。巨大な解体現場やな。NATO諸国の経済への跳ね返りは、時限爆弾で、こういう国々が存続できる基盤そのものを壊しとるんや。

ウクライナは、ロシアやのうてNATOにとっての泥沼や。戦場が西に動く必要はない。西側の列強のほうが、引きずり込まれて沈んでいっとるんや。

第二次世界大戦では、ソ連の赤軍がベルリンまでずっと押していった。今日の戦争では、新しいベルリンはウクライナにあって、そこでロシアの敵が、すり潰されて、中身をくり抜かれて、埋められとるんやで。

エイデン・ミニスはこう付け加えとる。「ロシアの指導者ウラジーミル・プーチンは、この戦争をえらい人道的に戦うとる。戦争でそんなことが可能やて言うたら、言い過ぎかもしれんけどな。けど、これは二重の戦略なんや。民間人の犠牲を抑えるためでもあるし、消耗戦でもある。今リアルタイムで起きとるんは、ウクライナの非武装化で、この戦争がロシアの勝利で終わったら、もう二度と戦争はできへんようになるんや。ほんで、それにNATO諸国の非武装化と脱工業化も、同時に起きとるんや」

https://strategic-culture.su/news/2026/10/27/seventy-years-since-1956-magyars-hungary-and-the-end-of-the-ferry-country/

七十年前の1956年から:マジャルのハンガリーと「渡し船の国」の終わり

ロレンツォ・マリア・パチーニ

2026年10月27日

十月の日々

「Magyarorszag nem komporszag」、つまりハンガリーは「渡し船の国」やない、東と西の間をふらふら漂うわけにはいかん、ちゅう話や。10月23日にブダペストの国会で、ペーテル・マジャル首相がこの言葉を言うて、1956年革命の70周年の政治的な調子を決めたんやな。そのすぐあとで、彼はこう付け加えた。56年に、ハンガリー人はもう選択をしたんや。「わしらは、自由で民主的なヨーロッパの一員や」てな。

この言い回しは偶然やないで。コムポルサーグ、つまり渡し船の国っちゅうのは、エンドレ・アディが作った言葉でな、1905年に彼がハンガリーを、東と西の間を行ったり来たりするだけで、どっちの岸にも永久には着けん運命の渡し船やて描いたんや。ヴィクトル・オルバーンは十六年間、その見方をひっくり返してきた。揺れ動くことを戦略に変えてしもうたんや。ハンガリーは橋や、EUの中にいるモスクワの話し相手や、「東への開放」の拠点や、てな。新しい政権は、国の暦の中でもっとも記憶が染みついた日を選んで、その時代は終わったと宣言したわけや。これがこの日の政治的な意味で、話を始めるにはここからが適切やで。

1956年10月23日、ブダペスト工科大学の学生らが、ポーランドの労働者に連帯して街に出た。行列はベム将軍の像の前に集まってから、国会に向かった。要求の中には、自由選挙とソ連軍の撤退があった。夜になって、群衆の一部は、スターリンの記念碑が立っとったヴァーロシュリゲトに移動した。ブダペストの警察署長ショーンドル・コピャーチが、著書『Au nom de la classe ouvriere』で詳しく書いとるんやけどな、デモ隊は像の首に鋼鉄のケーブルを巻きつけた――台座を含めて高さ約25メートルあった像やで――ほんで別の連中は、酸素ボンベと切断トーチを積んだトラックで着いて、ブーツのあたりのブロンズを切り始めたんや。像が倒れるまで一時間ほどかかった。台座には、ブーツだけが残って、そこにハンガリーの旗が立てられた。同じ頃、ラジオ局本部の前で、政治警察(AVH)が群衆に発砲して、抗議は武装蜂起に変わったんや。

10月25日、コシュート広場では、国会の前に集まったデモ隊に向けて撃たれた銃弾が虐殺を引き起こして、その死者数は今でも、数十人から数百人まで幅があるんや。今年の国の式典は、その同じ広場で行われた。

この革命は、片方だけが血を流さんかった話やない。第8区と第9区の路地、コルヴィン・パサージュのあたりでは、蜂起した者らの集団――その多くは、十代を出たばかりの少年やった――が、ソ連の戦車に火炎瓶で襲いかかって、乗員の多くが車内で焼き殺された。ソ連側の死傷者は合計で700人を超えとる。けど、一番激しい暴力が向けられたんは、政治警察の連中に対してやった。10月30日、共和国広場(Koztarsasag ter)で、蜂起した者らがブダペストの党本部を襲撃して、20人を超えるAVHの将校と徴兵された兵士が殺された。リンチされて木に吊るされた者もおって、市の書記イムレ・メゼーも一緒に殺されとる。革命自身の指導者らは、これらの行為を非難して、私刑をやめるよう呼びかけたんや。

10月28日の停戦で、撤退の段階が始まった。モスクワは、ブダペストから部隊を引き揚げることに同意した。ただしその代わりにハンガリーの部隊を置くこと、蜂起した者らが武器を引き渡すこと、が条件やった。戦闘員と直接接しとった縦隊は10月30日に持ち場を離れて、国会周辺から最後に出ていったんは31日の午後早くや。公然と敵意のある空気の中で行われた撤退やった。コルヴィン・パサージュの集団は、これは罠やと確信して、車列の安全確保を手伝うのを拒んだ。ほんで彼らの疑いは、根拠のないもんでもなかったんや。装甲車が何台か、ネープリゲトや市内のほかの場所に隠れたまま残っとったからな。けど、ハンガリー側もソ連側も、入手できる資料のどれを見ても、その二日間に去っていく部隊への組織的な攻撃があったと記録しとるもんはない。一番痛ましい証言――燃える車両から逃げる途中で殺されたソ連兵のもの――は、11月4日以降に起きた戦闘に関するもんなんや。一方で、10月31日には、ソ連共産党のプレシディウムが、もう決定をひっくり返しとった。

11月1日、イムレ・ナジの政府が、国の中立とワルシャワ条約機構からの脱退を宣言した。11月4日の夜明け、「旋風(タービン)」作戦で、ソ連の十七個師団がブダペストに戻ってきた。最終的な犠牲は、ハンガリー人の死者がおよそ2500人、亡命者が約20万人、有罪判決が数万件、処刑が200件超や。ナジ、パール・マレテル、ミクローシュ・ギメシュは、1958年6月に非公開の裁判のあと、絞首刑にされたんやで。

三つの広場、三つの記憶

マジャルはこう言うた。何年もの間、ハンガリー人は、国民の祝日は一つの政党のもんやて思わされてきた、と。この日が示したんは、役割が入れ替わったとしても、56年の記憶は今でも割れたままやっちゅうことやな。国は、コシュート広場で祝典を開いて、朝の国旗掲揚式と、国会の厳粛な会議をやった。フィデス、KDNP、ミ・ハザーンクは参加せんかった。新しい共和国大統領アンドラーシュ・バカの正統性を認めてへんからや。

フィデスは、独自の「国旗行進」を工科大学からベム広場まで組織して、1956年に学生らが通った道をたどった。演説者には、元大統領ヤーノシュ・アーデル、歴史家のマーリア・シュミット、議員団長のヤーノシュ・ボーカがおった。長年で初めて、オルバーンは10月23日の演説をせんかった。パリにおって、ボーカの動画をSNSで共有するだけにとどめたんや。デモのスローガンは「戦争はいらん、ジェンダーはいらん、移民はいらん――神、祖国、家族」やった。これで、野党が1956年のどんな解釈を守ろうとしとるか、えらいはっきりするやろ。国と信仰と家族のための、イデオロギーに対する反乱、っちゅう解釈や――今日ではブリュッセルに対して復活させられる解釈やな。

ミ・ハザーンクは、この解釈を論理の行き着くところまで持っていった。党首のラースロー・トロチカイは、1956年にハンガリー人が反乱を起こした相手はロシアやのうて、国際主義の帝国やったと主張しとる。ほんで、今日その帝国の名はヨーロッパ連合やて言うんや。それでわかるのは、ハンガリーの右派の少なくとも一部にとって、1956年が反西側の象徴になっとるっちゅうことや。

コシュート広場でのマジャルの演説は、この争いのある問題に触れた。エリカ・セレシュ、ペーテル・マンスフェルド、イシュトヴァーン・アンゴル、ナジ、マレテルの名前を挙げて、軍事的な優位は革命を叩き潰して「殉教した首相」を処刑できたけど、自由を求める願いを消すことはできんかった、て言うた。それから現在に話を移した。自分の国民に対する支えを「モスクワやほかの場所」に求める者は、外国の後ろ盾で支えられた権力は短い間しか続かんと思い出すべきや、と。1956年のあとで、侵略者を街中で行進させたり、国を外国の帝国に従属させたりする者は、「56年のメッセージを何一つわかってへん」て言うて、さらにマジャルはこう付け加えた。「ブダペストにおろうが、パリのテラスにおろうがな」。標的はオルバーンやった。

外交政策の部分は短くて、はっきりしとった。ハンガリーは、信頼できる同盟国、対等なパートナーでありたい。孤立した針路をたどる国にはなりたない、っちゅうもんや。演説は、ロシアには一度もはっきり触れへんかったし、中立にも言及せんかった。この選択には意味があるで。1956年には、中立がナジの最後の要求やった。七十年たった今、ハンガリー政府は、その同じ遺産を、等距離やのうて西側への錨やと解釈しとるわけや。

ブダペストのブリュッセル

欧州委員会のウルズラ・フォン・デア・ライエン委員長と、欧州理事会のアントニオ・コスタ議長が来たことで、この日には、はっきりしたヨーロッパの枠組みが与えられた。フォン・デア・ライエンは、2024年以来初めてのハンガリー訪問で、国会で「生まれ変わった国への」帰還について語った。1956年には、ソ連でさえ怖がっとった、と彼女は言うた。ハンガリー国民が勝ったら、民主主義への願いが広がったから。彼女は、この記念日を、4月12日の選挙に直接つなげた。4月に、ハンガリーはもういっぺん希望のメッセージを送った、民主主義の後退は元に戻せることを示したんや、てな。オルバーンの敗北と1956年革命の比較は、選挙の直後にも同じようにやっとって、ハンガリーの右派の抗議を呼んどったんや。

ほかの招待客の顔ぶれは、政府が思わせとったよりも地味やった。四十か国ほどが代表団を送ったけど、ほとんどが閣僚か議長のレベルやった。モルドバのマイア・サンドゥ大統領と、ジョージアのイラクリ・コバヒゼ首相は出席しとった。エマニュエル・マクロンは、マジャルがインタビューで出席すると言うとったのに来んかった。フランス大使館は、訪問は一度も確認されてへんかったと説明した。マジャル首相が、フランスの騒乱についてあれこれ発言したことで、数日間ぎくしゃくしたあとのことやな。ジョルジャ・メローニも、クウェートを訪問中で欠席。ドナルド・トゥスクはインドにおった。ヴォロディミル・ゼレンスキーは来とらんで、ウクライナは国会議長が代表した。ウラジーミル・プーチンは、ヨーロッパで唯一、招待を受けへんかった国家元首やった。

10月23日、彼は、実際にはもう始まっとった転換を、象徴的に確認した。マジャル政権は、ロシアを安全保障上の脅威に分類して、ウクライナのEU加盟のための交渉分野を四つ開くことに青信号を出して、2027年の国防予算をGDPの2%に設定した。ヨーロッパとロシアの間の橋の役割――オルバーンがハンガリー外交の看板にしたやつや――は、もう政府の方針やなくなったんや。

これが実際にどこまで達成できるかは、まだわからん。去年の4月、マジャルは、ハンガリーは「ロシアに近い」こと、原材料にもっと払うとヨーロッパの競争力が傷つくことを指摘しとった。ほんで、モスクワとの現実的な協力には前向きやと言うて、パクシュ2のクレムリンとの条件を再交渉したいと言うとったんや。石油は今でもドルジバ・パイプラインで来とるし、この国で唯一の原子力発電所は、ロシアの燃料を燃やしとる。エネルギー相のイシュトヴァーン・カピターニは、2027年10月から、ガスは完全にロシア以外から来るようにできると言うとる。パクシュ2についての決定は、年末までに出る見込みや。

この70周年は、一つの問いを答えのないまま残すことになる。アディは、ハンガリーが永遠に渡し船のままなんちゃうかと恐れた。オルバーンは、渡し船を橋に変えようとした。マジャルは今、西の岸への恒久的な着岸を約束しとる。その着岸が安定するかどうかは、演説よりも、地理とインフラで決まるやろ。

10月23日の二つの広場――コシュートとベム――は、同じ革命を祝うてへんかったんや。

https://strategic-culture.su/news/2026/10/26/up-in-arms-koreans-reject-u-s-empires-plan-to-make-south-korea-the-next-ukraine/

Up in arms… 韓国人が、韓国を次のウクライナにしようとするアメリカ帝国の計画を拒否

フィニアン・カニンガム

2026年10月26日

韓国が、アメリカの支配に反旗を翻しとるんや。アメリカが韓国の軍をずっと握ってきたことに対して、えらい強力な反対運動が起きとるのを、わしらは目の当たりにしとる。

それに、ドナルド・トランプ米大統領が求めとる、ペルシャ湾への韓国軍派遣を断れっちゅう圧力も、韓国政府に対してどんどん強まっとるで。

この反対運動が高まっとる大きな原動力はな、ワシントンが韓国を動かして、中国との戦争を戦わせようとしとるんちゃうか、っちゅう、広く共有された懸念なんや。

政治アナリストのKJ・ノーは、こう説明しとる。韓国の人らは、アメリカが自分らの国を、いずれ起きる中国との戦争を戦う代理にしようと位置づけとると受け止めとるんやて。ウクライナがロシアを挑発する最前線に使われとるのと、同じようなやり方やな。

「アメリカ帝国は、韓国を次のウクライナにしようとしとる」とKJ・ノーは言うとる。「韓国を武器にしとるんや」てな。

これは、ウクライナが2014年から、アメリカとNATOがロシアと対決するための代理として、仕込まれて武器にされてきたのと同じ構図なんや。

KJ・ノーが指摘するには、アメリカの帝国主義の計画立案者が、アメリカの覇権を広げようとする時に、一番の標的はずっと中国やったんや。ペンタゴンの将軍らは、2025年から中国との戦争について公然と語ってきた。アメリカが世界支配の野望を追い求めるには中国と対決せなあかん、と書いた戦略文書もいくつもあるで。

最近も、在韓米軍の司令官ザビエル・ブランソン将軍が、この国のことを「中国に突きつけた短剣」や「沈まへんアメリカの空母」て呼んだんや。そんな厚かましい発言が、反対の声をさらに大きく広げてしもうた。

KJ・ノーの主張はこうや。アメリカの戦略家は、ロシアとイランを倒すのは比較的簡単やろうと踏んどった。そうしたら、本命の標的の中国への道が開けるはずやったんやな。ところが、長引いとるウクライナ戦争と、ペルシャ湾でのトランプの大失敗のせいで、中国への戦争計画が先送りになった、っちゅうわけや。

そやけど、韓国の人らはわかっとるんや。アメリカ帝国がいざ中国を攻撃する段になったら、自分らの国がサムおじさんの代理として送り込まれるってことをな。

歴史的に見たら、この76年間、ワシントンは韓国軍を全面的に支配してきた。それを可能にしたんは、アメリカが第二次世界大戦のファシストの協力者を使うて韓国を統制したことで、その遺産は今も韓国のディープステートの中に残っとる。

KJ・ノーは、アメリカ帝国が韓国で、政治的な反対運動を潰すために行うてきた、ジェノサイド的な暴力の歴史を調べとるんや。大量殺人と集団墓地の規模はえらい衝撃的で、西側ではほとんど知られてへん。

何十年にもわたる残酷な抑圧にもかかわらず、アメリカの家来になるのを拒む、反抗的な意識は今も韓国人の間に残っとるんやで。

韓国人は、もうサムおじさんの汚れ仕事をやりたないし、経済の大部分が有益な関係を持っとるアジアの隣国、中国との代理戦争に、自分らの国が駆り出されるのも望んでへん。

そやから、韓国人はアメリカに、ついに軍の作戦統制権を引き渡せと求めとるんや。李在明大統領も、アメリカにそれに応じろと呼びかけて、民意を反映しとる。それにまた、韓国の国民も政府も、ペルシャ湾への派遣を求めるトランプのいらだった要求を拒んどるのも、そういうわけや。アメリカの戦争で韓国が忠実に尽くしてきた歴史を考えたら、今回の反抗は、両国関係の分水嶺になるで。

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