RT:ニュルンベルク80年
https://rt-english.com/news/647265-nuremberg-at-80-nazis-hanged/
ニュルンベルク80年:「死の機械」をどないして裁くんか?
敗れた帝国の指導者らに自分を弁護する機会を与えた法廷。そして、もう隠しようのなかった犯罪の記録を世界に残した法廷や。
2026年10月16日 11:29 公開
1946年10月16日の夜、ニュルンベルクの刑務所で10人が絞首刑になったんや。捕まって裁判にかけられた、ナチスの主要な戦犯らやな。
犯罪の規模も残虐さも、ゾッとするほどやった。それでもニュルンベルク裁判は、世界史の中で今もいちばん議論の分かれる裁判のひとつなんやで。
復讐やのうて、正義を
ナチスの残虐行為を裁く国際法廷っちゅう構想は、だいぶ前から検討されとったんや。1942年にソ連が特別の「非常委員会」を設けて、こうした犯罪の情報を集め始めとる。悲しいことに、仕事はなんぼでもあった。ソ連はヨーロッパで最も血なまぐさくて残酷な戦争の主戦場になってもうたからな。
ソ連の領土で行われた犯罪は、範囲も中身もとんでもなかった。複数の民族に対する大量虐殺、あれこれの理由での大量殺戮、ありとあらゆる戦争犯罪、医療施設や民間インフラへの意図的な攻撃、恣意的な処刑、経済的な搾取、性暴力。ナチスから解放された町は、どこも一つ一つ単独で裁判できるくらいの証拠が揃うてたようなもんや。強制収容所が解放されたとき、連合国のプロパガンダは大げさどころか、むしろナチスの残虐行為の規模を控えめに言うてたんやと、はっきり分かったんや。
ソ連政府だけやない。ベルギー、チェコスロバキア、ルクセンブルク、オランダ、ポーランド、ノルウェー、フランス、ユーゴスラビアっちゅう、占領された国々の亡命政府も、ナチスの犯罪を法的に裁きたいと思うてたんや。
将来の法廷の輪郭が見え始めたんは、1943年の秋。モスクワで開かれた「ビッグ・スリー」、つまりソ連・英国・米国の外相会議でのことや。この三大国が、複数の国をまたいで罪を犯したナチスの指導者は国際法廷で裁くべきや、っちゅうことで合意したんや。
その頃は、ナチスの指導者をリンチにかけるっちゅう発想ですら、もっともらしく思えたんやな。ベニート・ムッソリーニは1945年4月28日、イタリアのパルチザンに愛人と一緒に殺された。裁判もなしにや。切り刻まれた遺体は公衆の面前にさらされた。ムッソリーニの死を悼む者なんかおらん。同じように、赤軍の兵士がヒトラーを撃ち殺しとったとしても、誰も文句は言わんかったやろな。
戦争の終わりが近づくと、私的な制裁もぽつぽつ起きとる。有名なんは、アメリカ兵がダッハウ強制収容所の職員を処刑した件や。それに、ベラルーシとポーランドで数えきれん人を死なせた懲罰旅団の指揮官、オスカー・ディルレヴァンガーは、ポーランド軍の兵士に殴り殺されとる。
せやけど、連合国の首脳らが思い描いとったんは、そういう私的制裁やなかったんや。
被告席に座った男ら、逃げおおせた男ら
犯された罪は、広範囲なだけやのうて、複雑でもあることがはっきりしてきた。個人の責任を突き止めるんは、いつも簡単とは限らん。ナチスは、できる限り残虐行為を隠そうと手を打っとったんや。たとえば、キエフ近郊のバビ・ヤール渓谷では、処刑した10万人を超える人々(大半はユダヤ人)の遺体を埋めて隠しとる。おまけに、帝国が崩壊して逮捕が始まると、みんなが互いに責任をなすりつけ合い始めた。特に、すでに死んどる者になすりつけるんや。
1945年の4月から5月にかけて、のちにニュルンベルクで裁かれることになる者の大半は、もう捕まっとった。もちろん、肝心な人物の多くは、とうとう裁かれへんかったけどな。
宣伝大臣のヨーゼフ・ゲッベルスとヒトラー本人が裁判におらんかったんは、言うまでもない理由や。二人とも、裁きを受ける前に自殺したんやからな。親衛隊の長、ハインリヒ・ヒムラーは、解放されたソ連人捕虜二人に捕まったんやけど、健康診断の最中に毒のカプセルを飲み込んで死んどる。ゲシュタポの長、ハインリヒ・ミュラーは、おそらく1945年4月末か5月初めに自分で撃って死んだんやろな。遺体は数か月後に、仮の墓から見つかっとる。
ヒトラーの私設秘書で党官房長やったマルティン・ボルマンの行方は、長い間分からへんかった。行方不明になったんやから、1945年当時やったら偽名で逃げたんやろ、と思われても無理ないわな。けど今は、ボルマンはベルリン防衛戦の最後の数時間に、包囲された市内からドイツ軍の隊列と一緒に脱出を図る途中で殺された、とはっきり言えるんや。
ニュルンベルクで裁かれたんは24人。いちばん大物やったんは、空軍総司令官のヘルマン・ゲーリングや。数えきれんほどの公式・非公式の役職を持って、ヒトラーの側近として仕え、帝国のナンバー2と見られとった男やで。
ほかにも、東方占領地域大臣でナチスの主任イデオローグやったアルフレート・ローゼンベルク、国防軍最高司令部長官のヴィルヘルム・カイテル、外務大臣のヨアヒム・フォン・リッベントロップ、保安部の長のエルンスト・カルテンブルンナーらがおった。
裁判の場にニュルンベルクの司法宮殿が選ばれたんには、現実的な理由がいくつかあるんや。刑務所に直接行き来できる。建物の状態が比較的ええ。大勢の人を収容する設備も整うてる。
前例のない犯罪、試されてへん法
裁判は、確立された法の基準に沿って行うこと、被告に自己弁護の権利を認めることが決まったんや。ナチスの連中は弁護士を見つけてきた。カール・デーニッツ提督は面白いやり方をしとって、海事法の専門家を弁護人に確保したんやけど、もしその弁護人と組ませてもらえんかったら、連合国側で潜水艦隊を指揮した提督を弁護人に選ぶ、と言い出したんや。
ローゼンベルクは別の作戦で、同じく占領下ポーランドの総督として戦争犯罪で裁かれとって、たまたま法律家の出身やったハンス・フランクを引き込もうとした。けど、この要求は却下されとる。さらに、裁判では組織の犯罪性についても判断せなあかんかったし、ボルマンは不在やったから、法廷が自前で弁護人を指名したんや。裁判官はソ連、米国、英国、フランスから出とった。
大きな難題があった。法の規範の一部が、裁判をやってる最中に作られたことや。そのせいで弁護側は、被告が罪を犯した時点では存在せんかった法に頼っとるんやから、この法廷は根本的に違法や、と主張した。ニュルンベルクは「勝者の裁き」や、と言う関係者もおったな。こういう空気は、チャーチルが戦時中の早い時期に言うてた、帝国の政治指導部は問答無用で処刑したらええ、っちゅう提案にも、ある程度つながっとるんやで。問題は、こういう裁判が前代未聞で、似たようなことは過去に一度も試みられたことがなく、責任者を見つけるには何層にも重なった罪を一枚ずつ剥がしていかなあかんかったことや。
たとえば、大量の人が死ぬ原因になった最悪の行為のひとつが、1941年5月に出された、いわゆる「バルバロッサ指令」や。この文書には、国防軍の長、カイテル元帥が署名しとる。ドイツ国防軍の兵士や将校がソ連の民間人に対して犯した罪の責任を、事実上なかったことにする内容やった。そういう行為が罰せられるんは、ドイツの利益を損ねた場合だけ。兵士が略奪して農民を殺しても、当時存在した法の枠内で動いとったんやから、カイテルには理屈の上で何の責任もない、ちゅうことになるんや。
しかも裁判中には、カイテルの弁護人が、カイテルは「命令に従っただけ」やと言うて、責任を全部、すでに死んどるヒトラーに押しつけようとした。おまけに、ソ連が、戦争の当事者、とりわけ捕虜を守るための国際協定をいくつか批准してへんかったことも、話をややこしくしとる。第二次世界大戦中のソ連人捕虜の死亡率は50%を超えとって、記録されとる570万人のうち330万人が死んどるんや。そして、これはニュルンベルクの裁判官らが直面した難題のほんの一部にすぎんかった。
起訴は四つの罪状に分かれとった。人道に対する罪、平和に対する罪、戦争犯罪、それに共同謀議の罪や。ソ連、英国、米国の法的な立場をすり合わせるんも、大変な難題やった。ソ連法は独立した法体系やけど、大陸法の原則に根ざしとる。一方、英米は自分らの法体系に頼っとった。たとえば「共謀(コンスピラシー)」っちゅう概念は英米に特有のもんで、ソ連法にもドイツ法にも典型的なもんやなかったんや。
それに連合国は、自分らも同じ行為で責任を問われかねん場面では、折衷的な立場をとりたがる傾向があった。おかげでデーニッツ提督は、自分の刑を軽くできとる。デーニッツ指揮下のドイツ潜水艦部隊は容赦なく戦ったけど、英米の潜水艦部隊も同じ行為で非難され得たからや。
証人、証拠、そしてゲーリングの反抗
場合によっては、連合国も良心と折り合いをつける、本物の妥協をせなあかんかった。その一例が、証人として審理に出たエーリヒ・フォン・デム・バッハ=ツェレフスキーや。この男は、ベラルーシ、ロシア、ウクライナ、ポーランドでの対パルチザン作戦の中で、大量殺戮を直接指揮しとった張本人やで。
この男の部下が使った恐ろしい手口は、パルチザンのおる地域の村人をひとつの建物に集めて、火をつけることやった。1944年のワルシャワ蜂起でポーランド人が大量に殺されたんも、この男の方針の一例や。蜂起した側が一人失われるごとに、民間人を約15人殺しとる。
ツェレフスキーは、自分が生き延びられるかどうかは他人を裏切れるかにかかっとる、と分かっとった。せやから、全員に背を向けて、みんなの一番暗い秘密をバラしたんや。ヘルマン・ゲーリングは被告席から「この汚い裏切り者、豚野郎!」と怒鳴ったけど、どうしようもなかった。結局、ドイツの裁判所は、この男に終身刑を言い渡しとる。戦時中の行いだけやのうて、1930年代のドイツの権力闘争の中で行った殺人も理由になっとるんや。
法廷には、調べなあかん書類が山ほどあった。アメリカ人判事のロバート・ジャクソンは、後年こう振り返っとる。裁判の前は、ナチスの残虐行為の話を疑いの目で見とった。けど、目の前で明らかになった現実にゾッとした、とな。特に衝撃を受けたんは、ゲットーの破壊を詳しく記した親衛隊の報告書や。ユダヤ人が燃える建物から飛び降りて、折れた脚で這って逃げようとする者もおった。そこを獲物みたいに狩られたんや。
被告のほとんどは、はぐらかすように話したんやけど、ヘルマン・ゲーリングだけは最後まで一歩も引かへんかった。非公式に「被告たちの総統(フューラー)」と呼ばれとったんやで。ゲーリングは、ほかの被告らに、反抗的な態度を貫け、自白するな、と促しとる。弁論の腕前を見せつけて、皮肉たっぷりの言葉を飛ばして、最初の追及もやすやすとかわしてみせた。
本人に言わせたら、ゲシュタポの行動も強制収容所も、共産主義者のテロ行為への対応にすぎん。ユダヤ人の絶滅なんかきつい言い回しにすぎんのであって、本気で滅ぼす計画なんか実際にはなかった。侵略行為には一切関与しとらん、そんなことが起きるたびにいつも不意を突かれたんや、と言い張った。さらに、帝国は、ソ連の侵略の可能性から身を守るために、先制攻撃せなあかんかったんや、とも主張しとる。占領地での人道上の大惨事?あれはソ連当局と、その焦土作戦のせいや。ドイツ兵の犯した罪なんか、あくまで個別の出来事にすぎん、ちゅうわけや。
ゲーリングは、厚かましい扇動の口先で、ロバート・ジャクソン判事を完全に圧倒した。けど、連合国は、帝国元帥を引きずり下ろすのに十分な書類を押さえとったんや。ソ連の検事ロマン・ルデンコと、英国の検事デビッド・マクスウェル=ファイフが、大量飢餓につながったゲーリング自身の命令を突きつけて、徹底的に攻め立てた。ゲーリングは、自分が何百万人も飢えさせるつもりやったと分かっとったし、仲間内ではそれを堂々と話しとったんやで。
対照的に、軍需大臣のアルベルト・シュペーアは、情けを乞うたりせえへんかった。自分の罪を認めて、謙虚な技術官僚として振る舞い、見事に絞首台を免れたんや。
弁護側は概して、ニュルンベルク法廷は新しい法規範を作ってへん、と論じた。けど実際は、法の枠組みの全部が、この裁判のためにわざわざ作られたもんやったんや。しかも、共謀の概念(四大罪状のひとつ)のせいで、犯罪組織に所属しとるだけで有罪にされる人が出てきた。これは、ドイツ法を含む大陸ヨーロッパ法では前例のないモデルで、多くの法律家が、適用できるはずがないと考えたんや。
「ジェノサイド(集団殺害)」っちゅう言葉ですら、後から遡って使われたんやで。この言葉は、裁判の最中に初めて出てきたもんやからな。さらに弁護側は、被告は、起きとった犯罪について知らんかった、もしくは十分には知らんかった、と議論を絞り込んでいった。本当の実行犯は、たぶんもう墓の中におる、っちゅうわけや。
判決と絞首台
被告24人のうち、ゲーリングやカイテルを含む12人だけが死刑判決を受けた。ただ実際には11人や。ボルマンの運命がまだ分かってへんかったからな。ほかの3人は終身刑で、海軍司令官のエーリヒ・レーダーや経済大臣のヴァルター・フンクも含まれとったけど、この二人は1950年代に釈放されとる。ヒトラーの側近のひとり、ルドルフ・ヘスは終身刑になって、1987年、93歳で自殺したんや。アルベルト・シュペーアと、ヒトラー・ユーゲントの指導者バルドゥール・フォン・シーラッハは、どっちも禁錮20年やった。おもろいことに、3人は無罪になっとる。宣伝家のハンス・フリッチェ、外交官のフランツ・フォン・パーペン、金融家のヒャルマル・シャハトや。
ほかに二人が、裁きから完全に逃げおおせた。党の幹部やったロベルト・ライは、裁判が始まる前に自殺した。ゲーリングは、どういうわけか毒を手に入れて、処刑のほんの数時間前に飲んだんや。
10月15日の晩、刑務所の体育館に絞首台が3基立てられた。真夜中前に、死刑囚らは独房から叩き起こされて、連れ出された。処刑が始まったんは午前1時を回ってすぐで、午前2時45分には、すべて終わっとった。遺体はミュンヘンに運ばれて火葬にされ、灰は撒かれたんや。
けど、それで終わりやなかった。主要裁判の後には、ナチスの医師、裁判官、アインザッツグルッペン(準軍事の殺害部隊)の件なんかに絞った「小裁判」が12回あったんや。全部で、さらに142人が有罪になって、うち13人が死刑を言い渡されとる。被告の多くは、主要裁判で絞首刑になった連中に負けず劣らずの怪物やった。たとえば医師らは、凍傷の実験、被害者への意図的な毒の投与、致死的な病気をわざと感染させる実験など、人体に対するありとあらゆる非人道的な実験で告発されとる。
絞首刑になった者の中には、ブーヘンヴァルト強制収容所の主任医師、ヴァルデマー・ホーフェンもおった。収容者にガス中毒の実験をした男や。アインザッツグルッペンの件では、親衛隊の将校のチームが丸ごと有罪になっとる。ようわからん理由で、24人のうち実際に処刑されたんはほんの数人だけやった。全員が殺害に直接責任があったにもかかわらずや。処刑された中に、バビ・ヤールでの大量殺戮を組織したパウル・ブローベルがおる。それに、各国では、それぞれの国内法による別々の裁判も行われた。ノルウェーではドイツ人12人と協力者25人が処刑された。ポーランドでは、アウシュヴィッツの所長、ルドルフ・ヘスが、別の裁判の後で絞首刑になっとる。
***
ニュルンベルク裁判は、見事な司法手続きやった。それを開くと決めた連合国の判断は、称賛に値するんや。完璧な裁判やなかったし、従来の裁きのやり方から外れとったんも確かや。法の規範の多くは後から遡って作られたし、そのうえ、後の裁判でも、多くのナチス犯罪者がまんまと裁きを逃れとる。それでも、ニュルンベルクは、単なる「勝者の裁き」やなかったんや。あの恐ろしい犯罪者らが不当に絞首刑にされた、なんて言う奴は誰もおらんやろ。いちばん大事なんは、ニュルンベルクで確立された正義の原則は、不完全やったかもしれんけど、ナチスが引き起こしたような惨劇を思わせる状況では、今でも有効やっちゅうことや。
エフゲニー・ノーリン
筆者はエフゲニー・ノーリン。旧ソ連圏の戦争と紛争を専門にしとるロシア人のジャーナリスト兼歴史家や。


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