2015年5月15日金曜日

過剰適応は日本人の特性なのか

「中華喰うか」にもちょっとだけ書いたのですが、在外日本人学校の生徒会の民主的立候補イシュー。たぶんマネジメント(海外日本人教育組織たら校長会たら)のレベルでは、民主制と民主主義の手続き(というか手続きそのものが民主制度のキモということ)を理解させるために生徒会を組織して生徒会長を自主的民主的自発的に選出させたらよろしい、という程度のことなのでしょうが、それが最前線の先生になると、事実上候補者が数人規模で、みんなが自発性をもたってなきゃならんということになっているのかもしれません。
肩抱きにして「たのむよなぁ、自発的に手を挙げて立候補して欲しいんだよね。それが大オトナになるってことなんずら。」というのは我が輩の勝手な脚色ですが、そこまでなっちゃうと制度的な矛盾が集中した前線で、そもそも制度側に属する問題をワーカーレベルに押し付けるというワターミとかスーキヤのように黒認定されてしまいます。

さらに飛躍すると、日本の公教育のよさである先生の安定品質。パキスタンなら高卒程度で学校の先生をやっている人が多いなか、日本ではたいそう昔から、ちゃんとした大学で教員免許を取得して、難関の採用試験に通った人だけが先生になる。そして日本人じゃなくてもそこに住んでいるだけで(給食費とPTA会費以外は)無償で初等・中等教育を受けることができる。この世界に誇るべき教育制度の波及効果が現場に現れています。

我が輩の世代でも、教員免許コースをとる学生は、安定を求めていました。教員になる学生は、ごく少数の熱血志向以外は大多数が安定志向。大きな組織に何十年も属することを求めていました。その重層蓄積の結果、マネジメントの意向に過剰適応する現場を生み出したんじゃないかな。

過剰適応はなにも日本人だけではありません。中国では清朝の康煕・雍正・乾隆の時代、満州族の過去を語るなとマネジメントがいうので、現場はこぞって訓詁学に邁進しました。これもいわば過剰適応じゃないのかな。ちなみにこの時代に隅っこで息をしていた朱子学たら陽明学は日本に入ってこれまた過剰適応の結果、明治維新の時代の思想潮流のひとつになったらしい。儒教に過剰適応した本家はなんといっても朝鮮。南朝鮮なんていまだに事大主義がもこもこ勃起してそれでなくてもややこしい地政学的立場のややこしい人たちを混乱させています。

クールジャパンっていうのも過剰適応のポジティブな面だよね?

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