2023年7月7日金曜日

スレブレニツァの新たな情報開示は、偽りの物語を弱体化させる

https://strategic-culture.org/news/2023/07/06/srebrenica-new-disclosures-further-undermine-bogus-genocide-narrative/

スティーブン・カルガノヴィッチ

2023年7月6日

スレブレニツァに端を発するR2Pジェノサイド防止活動の人的犠牲は呆れるばかりだ、とスティーブン・カルガノヴィッチは書く。

毎年7月11日に行われるスレブレニツァ追悼式典は、今年はいつもより控えめなものになる。それには理由がある。多くの国に広がっている「ウクライナ疲れ」は、スレブレニツァ疲れによって増強されている。この2つの現象は、欺瞞に対する自然な反応であり、嘘が高尚な理想や聞こえの良いフレーズでカモフラージュされていた場合はなおさらである。ひとたび真実が知れ渡れば、その時点で勝負は決着し、騙した側は災いに見舞われる。

政治的デマの系譜において、四半世紀あまり前のスレブレニツァは、ブチャの前身である。すぐに解体されたブチャとは異なり、スレブレニツァは長い間、西側諸国にとってプロパガンダであり続けた。

スレブレニツァの恩恵を、適切な表現であるかどうかわからないが、ほとんどの人は知らない。それはR2P、つまり「保護する権利」という極悪非道なドクトリンである。NATOと西側は、ジェノサイドを防ぐという欺瞞的口実のもとに、従わない国々を破壊し、その社会を破壊するために、冷酷にも何度もR2Pを発動してきた。スレブレニツァはその根源である。1995年7月にスレブレニツァで何が起こったにせよ、「善人」(西側)が「悪人」(セルビア人)による大量虐殺(「8000人の男性と少年たち殺害のミーム)を阻止するために、断固とした態度で時間通りに行動することができなかったという物語が形成された。これは、客観的な教訓として、また将来の政策指示として宣伝された。「8000人のスレブレニツァの少年たち」を守れなかったストーリーは、世界規模で人道的介入を行うという道徳的義務へと姿を変えた。同じような大量虐殺事件が起きそうだと判断したときはいつでも行動する義務が、「善良な人々」に課せられた。彼らは空爆を行いながら、独善的に「2度とあってはならない」と叫びながら、略奪と地政学的優位のために軍事力を行使した。

コソボ、イラク、リビア、シリアは、その教訓が生かされ、主権国家(コソボの場合はユーゴスラビア)への違法攻撃をもたらした例である。介入の目的が、大量虐殺の危機にさらされた住民を救出することだったのか、それとも反抗的な国家を支配下に置き、その天然資源を略奪することだったのか。議論の余地があるだろう。しかし、公式のカバーストーリーは人道だった。

スレブレニツァに端を発するR2Pによる大量虐殺防止活動の人的犠牲は、ひどいものだ。イラクだけでも、推定によれば約100万人(マデリン・オルブライト「それだけの価値があった」)、シリアではおそらくその半分、リビアでは社会と政府の完全な崩壊と相まって数千人。崩壊した国で奴隷制度が復活した。NATO軍に占領され、「独立」を装っているコソボでは、1999年の猛烈な空爆の後、劣化ウラン弾が惜しみなく使用された。(ウクライナでは、その再現が現在進行中である。)がんによる死亡率は膨大で、NATOによる空爆が行われる前の状況とは比較にならない。奇形児や奇形動物が大量に生まれた。皮肉なことに、NATOによる人道的戦争が「8000人のスレブレニツァの男児」を祀るために行われたように、コソボ、イラク、シリア、リビア、その他の場所でも、犠牲者の圧倒的多数がイスラム教徒である。

西側集団の略奪的R2P戦争の人道的根拠と同様、スレブレニツァの犠牲者8000人という数字も、まったくの詐欺である。ジョージ・パンフリーが決定的に示したように、この数字は実際の死体数ではなく、1995年7月中旬、セルビア軍に陥落させられた後の混乱の中で流布された、行方不明者の数字2つを欺瞞的に組み合わせたものである。その後集められた証拠は、その数学的アドリブをまったく裏付けていない。

1996年から2001年にかけて、ハーグ法廷検事局に雇われた法医学チームが、スレブレニツァ処刑の犠牲者がいると疑われる集団墓地の発掘を行った。この発掘調査によって得られた3568の剖検報告書を注意深く分析した結果、当初の想定とは相容れない所見が得られた。犠牲者が同じような方法で処刑されたのであれば、多かれ少なかれ一様であろうという予想に反して、傷害のパターンは不均一であった。さらに重要なことは、統計的に有意な数の犠牲者が、処刑で予想されるような銃弾ではなく、地雷、砲弾、高速弾薬による爆裂傷で倒れたことが判明した。このような負傷は戦闘には適合するが、処刑には非典型的である。剖検報告書に記録されている死因と死因から、死刑執行のシナリオを支持できるのは、せいぜい800から900件程度であることも判明した。これは、スレブレニツァ陥落前の3年間に、ボスニア軍の部隊がスレブレニツァの内部から行った襲撃で殺された、スレブレニツァ周辺のセルビア人村落の民間人の数とほぼ一致する。最終的に、発掘された個人の数を相対的に正確に確定するために、スレブレニツァの犠牲者の大腿骨のペアを数えたところ、集団墓地には、さまざまな原因で死亡した約1920人が含まれていることが判明した。目標の8000人にはぜんぜん及ばなかった。

2001年、何の根拠もなく突然、法医学的発掘調査が打ち切られた。その後、発掘ではなくDNA照合に替えられた。DNA照合は、ごまかしがきく。予想通り、スレブレニツァの犠牲者約8000人という望ましい数字を生み出した。

検死報告書とその結果の解釈は公表されており、興味を持つ人は誰でも簡単に手に入る。入手可能であるにもかかわらず、無視されている。殺人事件では、犯罪現場から直接得られたこのような法医学的証拠は、有力な証拠とみなされる。 ハーグ法廷の検事側は、不都合な意味を持つスレブレニツァの検死報告書を証拠として提出しなかった。幸いなことに、独立した法医学の専門家や学者たちは、それらを入手することができる。

不利な法医学的証拠のほかに、スレブレニツァの余波の中で明らかになった、状況を一変させるデータがあある。セルビア人の支配地域を脱出し、サラエボの支配地域にたどり着いた、生存者の供述である。1995年7月後半にトゥズラへ無事到着した生存者たちは、赤十字、国連の現地要員、サラエボ当局の代表者に、まだ印象が新しいうちに報告した。彼らの証言によると、1995年7月11日頃、スレブレニツァがセルビア軍に陥落することが明らかになると、1万2千人から1万5千人のスレブレニツァの男性が60キロのトレッキングに出発した。その隊列は武装した軍人と民間人からなる混成隊であった。セルビア軍との激しい戦闘の結果、隊列は凄惨な死傷者を出した。隊列は混成部隊であり、戦闘に参加した武装集団も含まれていた。戦争法と慣習の観点からは、死傷者はすべて正当なものであった。これが、隊列に発砲し、隊列に死者を出したセルビア人将校や兵士が、ハーグ裁判で起訴されなかった理由である。隊列の膨大な戦死者数は、地雷や砲弾など、銃弾以外の弾薬による死傷者についても説明している。

こうした生存者の目撃証言も十分な量が簡単に入手できるが、検死報告書と同様、一般市民が容易に入手できるようにはされておらず、法廷に提出されることもなかった。1995年7月当時、スレブレニツァ関連死のほとんどが戦闘によるものであり、処刑ではなかったという証拠は、スレブレニツァの公式シナリオの一貫性を大きく損なった。この証拠もまた、公の場から遠ざけられるべきだと判断された。

今年3月、スレブレニツァの韜晦の果てしないカタログから、新たな詳細が浮かび上がった。いくつかのスレブレニツァ事件を担当し、ミロ=エヴィの起訴でその名声を高めたジェフリー・ニース元ICTY検事は、ボスニアのテレビ局のジャーナリストに対し、彼が調査した国務省の文書によれば、1995年5月28日、アメリカ、イギリス、フランスの3カ国は、セルビア人がスレブレニツァを攻撃した場合、軍事的手段で応じないという決定を下し、セルビア人にも伝達されたことを明らかにした。

人道的な「2度とあってはならない」という信念に照らせば、これは危険な情報である。西側主要国が、スレブレニツァへの攻撃を検討し始める6週間前にセルビア人に電報で伝えた立場は、何かを思い起こさせる。そう。かつてサダム・フセインがクウェート侵攻に踏み切った場合、西側諸国はいかなる姿勢もとらないことを確約したのと同じである。ニースが説明した状況は、驚くほど類似している。どちらのケースでも、自制のシミュレーションがターゲットを陥れるのに役立った。最も論理的な解釈は、スレブレニツァを占領し、それ以前の3年間に民間人を大量に殺害したセルビア人への復讐を果たせという、事実上の招待状がセルビア人に送られたということだ。

ほとんどのセルビア人はこの餌に乗らなかったが、セルビア人の一部の悪党は西側の計画通りに行動した。数百人の捕虜の処刑は、プロパガンダ的に10倍に誇張され、同年末のデイトン和平合意の土台を築き、戦略的に重要なボスニア・ヘルツェゴビナに対する西側の保護領をつくりだした。これはまた、翌月に西側が支援・援助したクロアチア人によるセルビア人のクラジナ地域に対する攻撃「嵐作戦」のプロパガンダの隠れ蓑にもなった。その結果、25万人のセルビア人が先祖代々の故郷から追放された。この民族浄化行為はスレブレニツァの影に隠れてしまった。後にピーター・ガルブライト駐ザグレブ米大使が「スレブレニツァがなければ嵐作戦はなかった。」と宣言した。道理だ。

コソボ、イラク、シリア、リビアのための便利な「人道的」R2Pの根拠も、「二度とスレブレニツァがあってはならない」という二枚舌のスローガンの下で、繰り広げられた破壊と騒乱もあり得なかった。

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