アメリカのピースコープス(平和部隊)は日本の外地での人材育成機関のパクリである。
東亜同文会ができて、南京同文書院がつくられたのが1898年(明治31年)。
上海に東亜同文書院がくつられたのが1901年(明治34年)。
満鉄の創立が1906年なので、それに先んじて現地で人材育成がされていたということになる。
さらに、満蒙研究会が1915年。同年に南洋協会。
満蒙研究会が満蒙文化協会になったのが1920年。同年にハルピン学院設立。
さらに満蒙文化協会が日中文化協会になったのが1926年。時代は昭和。
満州国通信社ができたのが1932年。初代CEOが里見甫。里見甫は東亜同文書院卒業生。
翌年1933年に日満文化協会。同年に日蒙協会。1935年に蒙古善隣協会。
1940年に興亜義塾。木村肥佐生と西川一三はここの卒業生。
日本は 敗戦までの約50年間、上海で、北京で、張家口で、満州で、蒙古で、ベトナムで、上は文化研究から下は作業員スパイレベルまで、軍隊に先んじて若い人たちを現地に放り込んで人材育成をするシステムを営々と作ってきた。
木村肥佐生さんと西川一三さんはラマ僧に変装してモンゴルからチベットに入り、敗戦を知ってインド経由で出頭・送還・帰国してから駐日アメリカ軍GHQに呼び出され、相当長期間尋問された。木村さんは優秀なスパイと認定されたらしく、それから15年間も在日アメリカ大使館に勤めてモンゴル情報を収集することになる。
アメリカの平和部隊という名のジュニアスパイ養成組織がJFKの肝いりでできるのはそのあと1961年のこと。日本の青年海外協力隊ができるのはそのさらにあとになる。だから青年海外協力隊関係者ですら、アメリカ平和部隊に倣って、なんていう人がいるくらいだけれど、どう考えても青年海外協力隊を作った人たちのなかに、あまり表にでなかった人材育成の歴史を知った人がいたに違いないと思う。国家百年の計を考えるほんとうの意味での愛国者が。
西川一三さんは理髪店経営で人生を終えたけれど、木村肥佐生は亜細亜大学の先生になった。我が輩の恩師も年譜によると、
1942(昭和17年)東京外国語学校蒙古語部を卒業。
1944(昭和19年)蒙古連合自治政府調査官となり、張家口にあった蒙古文化研究所に勤務。なお、張家口には西北文 化研究所があり、研究員の甲田和衛氏や蒙疆学院の山崎忠氏とは生涯の友人となる。
1945(昭和 20年)8月 敗戦により張家口から北京に逃れる。学問を続けるため中国残留を決意。
9月 規律整然と噂に聞く八路軍に興味を持ち、解放区を目指して南下。山東省楽陵で八路軍に拘束され、恵民に護送の上収監される。日本軍投降者と共に行動することになり、通訳を依頼される。12月頃 恵民から臨沂へ向けて出発。
1946(昭和 21年)1月 臨沂に滞在する。2月頃 東北方面に向かうことになり、黄海を横断し丹東へ。学問を続ける意志がかないそうもなくなり、八路軍を離れ単独行動をすることになる。
6月頃 遼陽で国民党支配地の監獄に収監される。日本人であることをあかし、植物学者の佐藤潤平氏に助けられる。9月 内地に引き揚げる。
そして、
1975(昭和 50年)4-5月 日中友好の翼・兵庫県各界友好訪中団の一員として、上海→北京→天津を廻る。 宴席で火を噴く大道芸をしようとして、伊藤道治神戸大教授に止められる。
というダイナミックでおもろい人でした。
上海に東亜同文書院がくつられたのが1901年(明治34年)。
満鉄の創立が1906年なので、それに先んじて現地で人材育成がされていたということになる。
さらに、満蒙研究会が1915年。同年に南洋協会。
満蒙研究会が満蒙文化協会になったのが1920年。同年にハルピン学院設立。
さらに満蒙文化協会が日中文化協会になったのが1926年。時代は昭和。
満州国通信社ができたのが1932年。初代CEOが里見甫。里見甫は東亜同文書院卒業生。
翌年1933年に日満文化協会。同年に日蒙協会。1935年に蒙古善隣協会。
1940年に興亜義塾。木村肥佐生と西川一三はここの卒業生。
日本は 敗戦までの約50年間、上海で、北京で、張家口で、満州で、蒙古で、ベトナムで、上は文化研究から下は作業員スパイレベルまで、軍隊に先んじて若い人たちを現地に放り込んで人材育成をするシステムを営々と作ってきた。
木村肥佐生さんと西川一三さんはラマ僧に変装してモンゴルからチベットに入り、敗戦を知ってインド経由で出頭・送還・帰国してから駐日アメリカ軍GHQに呼び出され、相当長期間尋問された。木村さんは優秀なスパイと認定されたらしく、それから15年間も在日アメリカ大使館に勤めてモンゴル情報を収集することになる。
アメリカの平和部隊という名のジュニアスパイ養成組織がJFKの肝いりでできるのはそのあと1961年のこと。日本の青年海外協力隊ができるのはそのさらにあとになる。だから青年海外協力隊関係者ですら、アメリカ平和部隊に倣って、なんていう人がいるくらいだけれど、どう考えても青年海外協力隊を作った人たちのなかに、あまり表にでなかった人材育成の歴史を知った人がいたに違いないと思う。国家百年の計を考えるほんとうの意味での愛国者が。
西川一三さんは理髪店経営で人生を終えたけれど、木村肥佐生は亜細亜大学の先生になった。我が輩の恩師も年譜によると、
1942(昭和17年)東京外国語学校蒙古語部を卒業。
1944(昭和19年)蒙古連合自治政府調査官となり、張家口にあった蒙古文化研究所に勤務。なお、張家口には西北文 化研究所があり、研究員の甲田和衛氏や蒙疆学院の山崎忠氏とは生涯の友人となる。
1945(昭和 20年)8月 敗戦により張家口から北京に逃れる。学問を続けるため中国残留を決意。
9月 規律整然と噂に聞く八路軍に興味を持ち、解放区を目指して南下。山東省楽陵で八路軍に拘束され、恵民に護送の上収監される。日本軍投降者と共に行動することになり、通訳を依頼される。12月頃 恵民から臨沂へ向けて出発。
1946(昭和 21年)1月 臨沂に滞在する。2月頃 東北方面に向かうことになり、黄海を横断し丹東へ。学問を続ける意志がかないそうもなくなり、八路軍を離れ単独行動をすることになる。
6月頃 遼陽で国民党支配地の監獄に収監される。日本人であることをあかし、植物学者の佐藤潤平氏に助けられる。9月 内地に引き揚げる。
そして、
1975(昭和 50年)4-5月 日中友好の翼・兵庫県各界友好訪中団の一員として、上海→北京→天津を廻る。 宴席で火を噴く大道芸をしようとして、伊藤道治神戸大教授に止められる。
というダイナミックでおもろい人でした。
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