2015年5月15日金曜日

アフガン難民のこと。パキスタンに逃げた人たちとイランに逃げた人たち。

仕事がらタイトルみたいなことを調べる機会がありました。ざっと書くと、1980年に始まったアフガン難民。国民の1割くらいの、半分がパキスタンに、半分がイランに逃げました。パキスタンでもイランでも最盛期には300万人くらいを受け入れていましたが、UNHCRなんかが頑張って帰還運動をして、いまはそれぞれ100万人くらいに落ち着いています。しかしイランとパキスタンではアフガン難民の身の上はぜんぜん違います。

イランでは登録されたアフガン難民は、公的医療補助もあるし、無償で学校に通うことができます。なかには無償で博士号まで取得した若者もいるくらいです。教育をあんまり受ける機会がなかった人たちでも、組織的に土木工事や清掃事業などの仕事に就くみちがあります。パキスタンではハザールに見える(ハザールにしか見えないとも言われた)我が輩がテヘランの路上を歩いていて、道を尋ねられたり、工事現場を通り過ぎる時にじっと見られ、イラン風じゃなくてアラビア風に挨拶をしたらアラビア風に挨拶を返して、なんだかフレンドリーな表情を見せてくれるのがそういう人たちなのでしょう。

いっぽうパキスタンのアフガン難民。イスラマバードに巨大な難民キャンプがありますが、悲惨な状況です。1983年に降り立ったムンバイ空港の、飛行機進入経路の真下に広がる泥色のアウトカーストのスラムを思い出しました。道路にラクダを座らせて女性がラクダのミルクを売っています。こどもたちが物乞いをしています。
パキスタンには1980年から1998年にかけて、推定15億ドルの難民援助資金が西欧から流入したとか。つまりパキスタンの態度は、金をくれたら難民受け入れますぜ白人の旦那衆さま、てか。金が出たら難民数が上昇し、金がなくなったら帰還運動。しかしその援助資金が難民対策にちゃんと使われているとはとても思えません。合法的に移住権を与えた人数はイランの1/3。もしお金がちゃんと使われていたら、難民キャンプがあんなスラムであるわけがない。つまり西欧の援助資金は、政権の偉い人たちのポケットを通じてスイス銀行とかケイマンアイランドのタックスヘブンに流入したのでしょう。

パキスタン人の識字率が40パーセント代。これは公的数字なので、実際はもっと低いといわれています。バロチスタン州の女性に限ると20パーセント代という話もあるくらいです。パキスタン国民ですらそうなのですから、アフガン難民に対する無償教育なんてあるわけがない。西欧資金(のほんの一部)で作られたマドラサという、多くの場合モスクにくっついた学校がタリバンの温床になった、というのは記憶に新しいじゃありませんか。

世界有数のタール炭田があっても掘る金がないパキスタン。鉄鉱石鉱脈が見つかったのに掘る金がない可哀想なパキスタン。イランから天然ガスを引っ張ってきたいのに、パイプラインを作る金がないみじめなパキスタン。水がないのに、水源を憎きインドに押さえられているパキスタン。そんなパキスタンに優しい手を差し伸べているのが中国。石油輸入大国の中国は、湾岸王様諸国から買った原油をパキスタンの西の端のグワダルという港で精製し、高速輸送路で新疆ウイグル自治区のカシュガルまでまっすぐ運んだら、インド南端をまわってシンガポールの海峡を通って上海に陸揚げする2ヶ月ルートにくらべ、40日で中国の工業地帯に運ぶことができるそうです。

てなわけでパキスタンは乞食国家を卒業し、栄えある中国の第7の少数民族自治区へ昇格。それって昇格なのか降格なのか。第6番めじゃないのか、って?

第6番目は朝鮮でしょうが。

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