2015年5月15日金曜日

在日朝鮮・韓国人2〜3世のこと。アフガン難民2〜3世のこと。

アフガンに旧ソ連軍が侵攻したのが1979年12月。翌1980年からアフガン難民が流出。そしてすでに35年。イランでは難民2世や3世が誕生し、親の祖国を知らないこどもたちがすでに成人しています。そのことを考えるたびに、我が輩が生まれ育った故郷を思い出します。

我が輩の故郷は関西の海沿いで、小学校のクラスメートは金井、金本、金田、木村、新井、新山、夏山などなど。金田くんの家に寄ったら、金田くんとおばあちゃんが話す言葉は我が輩の知らない言葉だったりしました。
それのみならず、そのほかに少なからぬ人数のこどもたちが同和対策地域の出身者。彼ら彼女らは放課後に我が輩の知らない塾みたいなところに通い、勉強をよく頑張って成績のよいこどもたちがたくさんいました。彼ら彼女らは日本人なのに日本人としての扱いを受けなかった、いまの用語で言えばIDP (Internally Displaced People) といっていい存在です。

イランでもそうですが、国籍・出自を問わず、地域のあらゆるこどもたちにちゃんとした教育を受ける機会を無償で与え、場合によっては公的機関やNGOがそれ以上のものを与える。このことは数年後から数十年後の共同体にとって、じわじわと効いてくるものがあります。いま我が輩の故郷が、かつて酔っ払いが立ち小便をしたり下品な関西弁で喧嘩をしていた粗暴なスラムではなく、ずっとマシな地域として認知されているのも、暴力教師もいたけれど、当時の学校の多くのまっとうな先生たちの努力の結果だと思います。

神戸でも震災で壊滅的な打撃を受けたような、同じような地域を知る同学から学んだのは、少なからぬ「在日僑胞」たちが朝鮮総連と民団の両方に属していたらしいこと。我が輩が知るのは、そういう地域が創価学会と共産党の勢力争いの場だったことくらいですが、総連と民団の両方に属するっていうのは、まるで創価学会と共産党の両方に所属している?っていうくらいの驚きでした。しかし生き延びるための知恵として、悩むない選択だったのでしょう。

2世〜3世たちのことを皮膚感覚で知る世代として、10代の終わりころに2世と「いつになったら日本人が朝鮮人のことを理解するのだろうか」と夜更けまで語り合ったこともありました。 「在日2世というのもアイデンティティーのひとつとして開き直ったらいいんじゃないか?」という我が輩に、「そんな簡単なものじゃない。」とも言われました。

しかし韓流ブームがやってきて、夜更けのため息とともに吐露された思いが津波のように洗い去られ、そのブームもあっというまに小さくなっていまの嫌韓ブームです。

これには本国の責任が大きいよね。サルフの戦いの時代とまったく同じことを繰り返しているんだから。俺もう知らないよ、勝手にやってくれ。2世3世4世も同じ考えじゃないかな。やつらもうとっくのむかしから日本人そのものなんだから。

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