2015年5月23日土曜日

「西北研究所の思い出」

http://repo.nara-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/AN10086451-19861200-1004.pdf?file_id=1559

「藤枝晃博士談話記録」って。めっちゃおもろい。
いわく、

善隣協会に調査部というのがあったんです。善隣協会というのはそもそもその時分、新京で最初できて、東京に本部があって、つまり関東軍の一歩先に出て行って民間に入り込むという謀略団体ですわな、いまの言葉で言うたら。当時の言葉では国策団体。内蒙古にずーっと軍隊より一歩先に出て行った。勇ましい団体なんです。それである時期に、十年ほどたって、昭和15年に東京と現地とを分けて、東京のほうは財団法人善隣協会、そして現地のほうは蒙古政府の財団法人で、蒙古善隣協会という別の団体にして、東京の協会の束縛を受けないで勝手なことをできる状態にして。
蒙古善隣協会ちゅうのは、日本政府が張家口の大使館を通して全額助成してた。東方文化研究所も大東亜省の全額助成団体・・・云々。
(略)
本部の近くに回民女塾というのがあります。イスラムの女学校、全寮制で。これは是永章子という大分県のオバハンがやってたんや。この人はその前に朝鮮で小学校の先生をしてたんや。
(略)
綏遠に興亜義塾という、中田善水が塾長で、日本の中学でたやつをスカウトしてくるのやね。あんまりできの良くない豪傑、少々のことにこたえんような頑丈なやつばっかり。その第2回か第3回かの卒業生の木村肥佐生いうの、ラマに化けてチベット行って。それからもうひとり西川一三。僕が行った時はそういう若いのが二人潜入してるということを聞いたですがね。その後インド通って帰ってきた。ああいうのが出たんは興亜義塾というものも成功したということなんやろうかな。ひとりのやつは、向こうにはいって住み着いて、いづれ日本軍が来る時それを迎えるようにと言われたて、これ(協会史)見たら書いたるねん。例の小野田少尉、ああいう人のまだ見つからんやつがいっぱいおるのやろな。あちこちに消えたやつが。
(略)

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