サウジ王は狂王か織田信長か
サウジ王家のなかで現国王を骸基地判定して退位させるという動きがあるとか。皇位継承権の有無を別とすれば1万人とか2万人の王子がいるというサウジ家はそれだけで狂っているといっていいと思うのですが、何十年も石油にあぐらをかいて、西欧で教育を受け、ゴージャスな暮らしが当然と皆が思うなかで、それなりに合理的な考えの人が出てもおかしくないし、逆に骸基地が出てもおかしくないとおもいます。
塩野七生さんが「男の肖像」でいわく、「織田信長が日本人に与えた最大の贈物は、比叡山焼打ちや長島、越前の一向宗徒との対決や石山本願寺攻めに示されたような、狂信の徒の皆殺しである。」塩野さんはこれをきっかけに日本に政教分離の風土が根づいたというわけですが、これはとても面白い見方だと思いました。
司馬遼太郎さんが「街道をゆく7」の「大和・壺阪みち」にいわく、室町期に農業生産力を背景に成長した新興勢力が「横に連携する機能として、一向宗が大いに社会的効用を果たした。たとえば加賀ではそのような新興地主群が『守護(室町の正規大名)に租税をおさめるのはばからしい。それよりも一向宗におさめるほうがいい』として、ついには守護大名の富樫氏をたおし、ついに加賀一国をそのような地侍どもの協議制のもとで自治を行うことが二十数年も続いた。加賀一揆が、それである。(中略)一向宗は地侍連合の接着剤として効用し、そういう全国組織の中心的な機関として本願寺が存在した。」
うーむ。織田信長が越前の一向宗徒を皆殺しにしなければ、日本はバチカンがローマを支配したような体制になっていたかもしれず、本願寺とイエズス会の宗教戦争の場になっていたかもしれない、と。
めっちゃ単純な当てはめかたになるけれど、いまの中東はワハビー(サウジ家とイスラム国)、イラン(シーア)、シオニズム(イスラエル)が同居していて、とても不安定に見える。ワハビーというのはいわゆるスンニのイスラム原理主義で、血統主義でなく合議制で権力の後継者をきめるというそれなりに合理的なカリフ制とともに、イスラム国はそれを継承すると言っている。サウジ家はワハビーの総本家なのだけれど、彼らほど非ワハビーな生活をしている人たちはいない、というのはこのブログのまえの投稿で書いた。だからこそサウジ家はめんどうくさいワハビーの旗をイスラム国にもたせて、イスラム国とともにワハビーを葬ろうとしているのではないか、というのもそこに書いた。宗教がらみの戦国時代に織田信長の出現が求められているのではなかろうか?
イラン・イスラム共和国がになうシーアというのは、それなりに合理的なカリフ制を認めつつも、そのためにマホメットの血族を殺しまくるというのはあんまりやおまへんかという義理人情浪花節のメンタリティーで、こちらは殺戮されているだけに熱くて、合理的観点からすればめんどうくさい。
さらにイスラエルのシオニズムですが、こちらは政治的な右翼というだけで宗教性に関連ないぶん、合理的な面がありそうです。原理主義としてのハセデックと呼ばれる人たちはどっちかというとニューヨークにたくさん住んでいて、彼らがどこまでシオニズムを支持しているかわからないけれど、ユダヤ人の氏神信仰としてのユダヤ教というのをちゃんと認識していて、救われるのはユダヤ人だけで結構、ことさら地上に地獄をつくりだす必要はなかろうと考えているんじゃないかな。つまりシオニズムには宗教性はなくて政治性だけ、その文脈でサウジ家と合従連衡してなんの不思議もござらん。
じゃあサウジ家はパレスチナはどう考えているのかといえば、そんなことはどうでもよくて、イエメンの一部を征服したらそこに移住させるんじゃないかな。サウジがおとなりのイエメンを爆撃していることからもわかるけれど、アラビア人、スンニ派モスレムの連帯感なんていっさいない。ずいぶんまえからスーダン人を奴隷扱いしていたり、出稼ぎパキスタン人を動物扱いしていたのだから、「モスレムはひとつ」なーんてスローガンは嘘だった。アラブ人は嘘つきホラ吹き、ってきまっているでしょ。そんなひどい言いかたじゃなくても、「それなりに合理的」なのだ。
というわけで、狂王かどうか、誰がそうなのかはどうでもいいんだけれど、サウジ王家から織田信長が出て、イスラム国をワハビーの旗とともに皆殺しにしてスンニ・イスラムを再合理化するんじゃないかな。第一次合理化は西暦680年、イマーム・フセインというモハメットの血族を血祭りにあげてカリフ制という合議制のもとでイスラム圏を拡大したこと。ワハビーの旗をイスラム国っていう子会社に譲渡してから葬り、本社はより合理化するっていうのは、いかにも西欧で教育を受けた三代目の考えそうなことじゃありませんか。
すくなくともイスラム国は、残虐さは似ているとはいえ信仰をもっているという点で織田信長じゃない。
塩野七生さんが「男の肖像」でいわく、「織田信長が日本人に与えた最大の贈物は、比叡山焼打ちや長島、越前の一向宗徒との対決や石山本願寺攻めに示されたような、狂信の徒の皆殺しである。」塩野さんはこれをきっかけに日本に政教分離の風土が根づいたというわけですが、これはとても面白い見方だと思いました。
司馬遼太郎さんが「街道をゆく7」の「大和・壺阪みち」にいわく、室町期に農業生産力を背景に成長した新興勢力が「横に連携する機能として、一向宗が大いに社会的効用を果たした。たとえば加賀ではそのような新興地主群が『守護(室町の正規大名)に租税をおさめるのはばからしい。それよりも一向宗におさめるほうがいい』として、ついには守護大名の富樫氏をたおし、ついに加賀一国をそのような地侍どもの協議制のもとで自治を行うことが二十数年も続いた。加賀一揆が、それである。(中略)一向宗は地侍連合の接着剤として効用し、そういう全国組織の中心的な機関として本願寺が存在した。」
うーむ。織田信長が越前の一向宗徒を皆殺しにしなければ、日本はバチカンがローマを支配したような体制になっていたかもしれず、本願寺とイエズス会の宗教戦争の場になっていたかもしれない、と。
めっちゃ単純な当てはめかたになるけれど、いまの中東はワハビー(サウジ家とイスラム国)、イラン(シーア)、シオニズム(イスラエル)が同居していて、とても不安定に見える。ワハビーというのはいわゆるスンニのイスラム原理主義で、血統主義でなく合議制で権力の後継者をきめるというそれなりに合理的なカリフ制とともに、イスラム国はそれを継承すると言っている。サウジ家はワハビーの総本家なのだけれど、彼らほど非ワハビーな生活をしている人たちはいない、というのはこのブログのまえの投稿で書いた。だからこそサウジ家はめんどうくさいワハビーの旗をイスラム国にもたせて、イスラム国とともにワハビーを葬ろうとしているのではないか、というのもそこに書いた。宗教がらみの戦国時代に織田信長の出現が求められているのではなかろうか?
イラン・イスラム共和国がになうシーアというのは、それなりに合理的なカリフ制を認めつつも、そのためにマホメットの血族を殺しまくるというのはあんまりやおまへんかという義理人情浪花節のメンタリティーで、こちらは殺戮されているだけに熱くて、合理的観点からすればめんどうくさい。
さらにイスラエルのシオニズムですが、こちらは政治的な右翼というだけで宗教性に関連ないぶん、合理的な面がありそうです。原理主義としてのハセデックと呼ばれる人たちはどっちかというとニューヨークにたくさん住んでいて、彼らがどこまでシオニズムを支持しているかわからないけれど、ユダヤ人の氏神信仰としてのユダヤ教というのをちゃんと認識していて、救われるのはユダヤ人だけで結構、ことさら地上に地獄をつくりだす必要はなかろうと考えているんじゃないかな。つまりシオニズムには宗教性はなくて政治性だけ、その文脈でサウジ家と合従連衡してなんの不思議もござらん。
じゃあサウジ家はパレスチナはどう考えているのかといえば、そんなことはどうでもよくて、イエメンの一部を征服したらそこに移住させるんじゃないかな。サウジがおとなりのイエメンを爆撃していることからもわかるけれど、アラビア人、スンニ派モスレムの連帯感なんていっさいない。ずいぶんまえからスーダン人を奴隷扱いしていたり、出稼ぎパキスタン人を動物扱いしていたのだから、「モスレムはひとつ」なーんてスローガンは嘘だった。アラブ人は嘘つきホラ吹き、ってきまっているでしょ。そんなひどい言いかたじゃなくても、「それなりに合理的」なのだ。
というわけで、狂王かどうか、誰がそうなのかはどうでもいいんだけれど、サウジ王家から織田信長が出て、イスラム国をワハビーの旗とともに皆殺しにしてスンニ・イスラムを再合理化するんじゃないかな。第一次合理化は西暦680年、イマーム・フセインというモハメットの血族を血祭りにあげてカリフ制という合議制のもとでイスラム圏を拡大したこと。ワハビーの旗をイスラム国っていう子会社に譲渡してから葬り、本社はより合理化するっていうのは、いかにも西欧で教育を受けた三代目の考えそうなことじゃありませんか。
すくなくともイスラム国は、残虐さは似ているとはいえ信仰をもっているという点で織田信長じゃない。
0 件のコメント:
コメントを投稿
登録 コメントの投稿 [Atom]
<< ホーム