シリアの攻撃部隊はクメール・ルージュだ
https://consortiumnews.com/2024/12/06/offensive-forces-in-syria-are-like-khmer-rouge/
2024年12月6日
ジョン・ワイトは、1970年代のカンボジアのクメール・ルージュと現代のサラフィー・ジハード主義の台頭の共通点は、欧米の外交政策にあると言う。
ジョン・ワイト著
ミディアム
何千人ものサラフィー・ジハード主義者が首都ダマスカスに危険なほど接近し、不意打ちで電光石火の攻撃を仕掛けている今、シリアで起きていることは、シリアだけでなく、すでに紛争とそれに伴う人的被害で疲弊している地域全体に破滅的な結果をもたらす可能性を秘めている。
西側メディアは、中世的な思考を持つ首切り狂信者たちを反徒のように描いているが、これは教訓を学んでいない証拠だ。1996年のカブールでのムハンマド・ナジブラ打倒の結果から何も学んでいない。2003年のイラクのサダム・フセイン打倒からも。2011年のリビアのムアンマル・カダフィ打倒からも。
いずれの場合も、結果は法の支配に支えられた自由民主主義の確立ではなかった。いずれのケースも、イスラム教を曲解した名目で大量殺戮を意図する狂信者が引き起こした騒乱と殺戮があった。
1970年代のカンボジアのクメール・ルージュは、同じような不安定化した状況の中で、政権を握った。カンボジアにおける不安定化の原因は、アメリカによるベトナム戦争の拡大であり、カンボジアにおける大規模な爆撃作戦であった。
1973年、アメリカはわずか数週間のうちに、第2次世界大戦で日本に投下した爆弾の数よりも多くの爆弾をカンボジアに投下した。1973年当時、人口700万人から800万人であったベトナム共和国西部の国境を隔てたこの小国は、5回のヒロシマに相当する爆撃を受けた。
米軍の空爆作戦で死亡した人数は確認されていないが、50万人程度と考えられている。これは第2次世界大戦以来の人道に対する犯罪である。
クメール・ルージュは当時、元仏教僧のポル・ポトに率いられたカンボジアの端役の毛沢東主義教団だった。この組織には支持基盤がなく、アメリカの大量爆撃作戦以前は、その影響力はほとんど皆無に近かった。ポル・ポトによる破壊と混乱は、すべてを変えた。
1975年までに、この死のカルト集団は国を乗っ取ることに成功し、世界が見たこともないような残忍で野蛮な大量殺戮作戦に乗り出した。
カンボジアをゼロ年代の農耕純粋共産主義社会に戻すことを目的に、彼らはカンボジアの都市や町を強制的に人口減少させ、人々を田舎に送り込み、コミューンで土地で働かせた。その過程で、何千人もの人々が病気や飢えで死に、他の人々は死ぬまで働かされ、何千人もの人々が拷問を受け、処刑された。
教師、医者、弁護士、教育を受けた人々、仏教僧、非カンボジア人、すべてがクメール・ルージュのキャンペーンで虐殺された。その結果、国中に奴隷労働キャンプと拷問センターのネットワークが作られ、その残虐性はとどまるところを知らなかった。
彼らの統治が終わるころには、カンボジアの人口の3分の1が亡くなっていた。ホロコーストに対するハンナ・アーレントの不朽の言葉、「悪の蛮行」を思い起こさせる。
ポル・ポトとクメール・ルージュの残忍な支配は、1979年にベトナム共和国の軍隊がカンボジアに入り、カンボジアの人々を解放するまで続いた。カンボジアの解放に対するワシントンの反応は、カンボジアの新政府に経済制裁を科すことであった。植民地であることを受け入れず、アメリカ帝国主義のくびきを投げ捨てたベトナムによって解放されたことが罪である、苦境に立たされた人々に対する吐き気を催す残酷な行為であった。
今日、カンボジアと中東の類似性は否定できない。シリアで攻勢をかけるサラフィー・ジハード・グループは、クメール・ルージュを特徴づけたのと同様の野蛮で反人間的なイデオロギーを持っている。
これらの集団は、交渉できるような政治的プログラムを持たない。宗派間の暴力と流血の深淵を除けば、この地域に何ももたらさない。
1970年代にクメール・ルージュが台頭し、現代ではサラフィー・ジハード主義が台頭した背景には、欧米の外交政策という共通項がある。それは悪魔の所業であり、国全体だけでなく地域全体を根底から覆した責任がある。
バッシャール・アル=アサド大統領が倒れれば、シリアの少数民族コミュニティーは即座に消滅の危機にさらされる。
この脅威は、聖書的規模の難民危機をさらに引き起こす。2024年に向けて時計の針が刻々と進む中、私たちは今、ゼロ年銃の銃口を見つめている。
ジョン・ワイトは『Gaza Weeps, 2021』の著者である。
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