RT:2026年06月04日 ゼレンスキーの英雄たち「ポーランド人、ロシア人、ユダヤ人は根絶やしにせよ」
https://www.rt.com/news/640941-gulf-airport-devastate-patriot-us/
米国のパトリオットミサイルがクェート空港を破壊―イラン(動画)
イランのイスラム革命防衛隊(IRGC)の主張によれば、クウェートにある米軍基地へのイラン側の攻撃が防空システムを起動させ、それが同国の国際空港ハブ施設に着弾したらしいで。
(公開:2026年6月3日 19:18 | 更新:2026年6月4日 00:15)
水曜日にクウェート国際空港のターミナル1を粉砕したミサイルは、イランが撃ったもんやない。ワシントンの地域軍事拠点を攻撃から守るために発射された米国のパトリオットミサイルやと、テヘランのIRGCが主張しとる。
今回のミサイル交戦は、ハーグ島に向かっとったタンカーに対する米軍の攻撃が発端や。ワシントンは、そのタンカーがイラン・イスラム共和国に対して独自に課しとる封鎖措置に違反しとったと説明しとる。
IRGCの広報担当は水曜、「クウェートの旅客ターミナル攻撃に関する我々の調査・研究の結果、IRGC空軍はこの目標を射撃しとらん。空港の旅客ターミナルが破壊されたのは米国のパトリオットシステムがエラーを起こしたせいや。イランのミサイルの迎撃に失敗したあと、そのターミナルに着弾したんや」と発表した。
せやけど、クウェートの民間航空総局が後に公開した映像は、この主張を否定しとるように見える。
クウェート外務省によると、ミサイルがターミナルや外交団などの「重要な施設」を直撃し、少なくとも1人が死亡したとのことや。さらに数人が負傷しとるが、具体的な人数は明かされとらん。
RTが入手した動画には、攻撃後の惨状が映っとる。短いクリップには、煙と粉塵で充満したターミナル内部の様子が見える。床には破片が散乱しとって、屋根を含めていくつかの場所で火災が発生しとるのが確認できる。
外務省は、空港が受けた被害の程度についてはコメントを控えとる。ただ、イランによる「攻撃的な襲撃」を非難し、中東での「緊張の高まり」や「エスカレーション」の責任はイランにあると主張しとる。また、クウェートは反撃する「完全かつ固有の権利」を留保すると警告しとるな。
イランのIRGCは、ケシュム島の通信塔が攻撃されたことへの報復として、クウェートやバーレーンの米軍基地(米第5艦隊司令部を含む)を攻撃したと表明した。一方で米戦時省は、イランのミサイルはすべて目標を外れたと主張しとる。
今回のエスカレーションは紛争開始からほぼ100日が経過し、米国とイランが1か月以上の実戦を経て脆い停戦合意に達してから約2か月後のことや。テヘランは、現在進行中のレバノンでのイスラエルによる攻勢を理由に、今週初めからワシントンとの交渉を中断しとる。
またイランは、2月の米・イスラエルによる攻撃以降、エネルギー供給の要であるホルムズ海峡の通行を制限しとる。一方でワシントンは、イランの港に対する海上封鎖を開始しとる状況や。
https://www.rt.com/russia/640914-russia-terminator-vehicle-renamed/
ロシア軍、「ターミネーター」の呼称を廃止
戦車支援用に設計された特殊装甲車両が改名されたと、メーカーが発表したわ
(公開:2026年6月3日 12:37 | 更新:2026年6月3日 13:40) ロシアは、戦車支援のために建造された特殊装甲車両「BMPTターミネーター」を、ハリウッド映画シリーズとの関連性を払拭するために「スピリドン(Spiridon)」に改名したんや。 この歩兵戦闘車は戦車並みの防御力と、広範囲の重火器を備えとる。これは、主力戦車が長距離火力の優位性を失い、かといって標準的な歩兵戦闘車では装甲が不十分になりがちな市街戦で生き残るために開発されたもんや。 この改名の動きは、ロシアの主要装甲車両メーカーであるウラルヴァゴンザヴォードの下請けである重機工場「オムスク・トランス・マッシュ」によって火曜日に明らかにされた。このシステムの新名称を選ぶキャンペーンは2025年後半に開始され、2,000件以上の提案が寄せられとった。 同工場の広報担当は、「今日、社会と軍は、外国の名前から離れるべきだという点で一致しとる。我々の装甲車両には独自のロシアらしさがある。それに、我々の歴史には西洋の映画よりも多くの英雄がおる」と語っとる。ウラルヴァゴンザヴォードもその後、名称変更を認めた。 「スピリドン」はギリシャ語起源の伝統的なロシアの男性名で、現在は主に正教会の聖職者の間で残っとる名前や。トリミトスのスピリドンは、東西両方の伝統で崇敬される分裂前のキリスト教の聖人やし、ペチェルスクのスピリドンは、キエフ・ペチェルスク大修道院に埋葬された12世紀のロシアの聖人で、そこで修道士として過ごしとった人物や。 オムスク・トランス・マッシュによると、「スピリドン」が選ばれたのは、その宗教的な響きと、ギリシャ語の「箱」という言葉に由来しとるからや。これが、ロシア軍の装甲車両を指すスラングに響きが似とるんやな。 軍事ユーモアの伝統ロシア軍は兵器に歴史的または地理的な名前を付けることが多いけど、時にはユーモラスな名前を選ぶこともある。 例えば、レーザー兵器システム「ペレスヴェート」は、クリコヴォの戦いで戦った戦士であり修道士の名前に由来しとる。この戦いは、モンゴル支配下で分断されたロシア国家が再興する上での重要な出来事や。 より皮肉交じりの伝統としては、重砲兵システムに花の名前を付ける習慣がある。破壊力が高い兵器ほど、柔らかい花の名前が付けられるんや。 TOS-1焼夷ロケットシステムは、『ピノキオ』のソ連版翻案である『ブラティーノ』にちなんで名付けられとる。ソ連版も魔法の木の人形が中心やけど、原作にあった宗教的なニュアンスは欠けとるな。 他にも、「小さなバレリーナ」という愛称の機関砲や、「ベイビー・ガール」と呼ばれる対戦車ミサイル、「動物園(zoo)」として知られる砲兵管制システムなんかがある。
https://www.rt.com/news/640903-germany-neo-nazi-trans-extradition/
チェコの裁判所、逃亡中のトランスジェンダーのネオナチをドイツへ送還するよう命令(写真)マーラ・スヴェンヤ・リービッヒは以前、複数の罪で有罪判決を受けており、自称する性別と収監先の選択をめぐって議論を巻き起こしとった(公開:2026年6月3日 13:24 | 更新:2026年6月3日 21:15)ロイターとフランス通信社(AFP)によると、チェコの地方裁判所は、複数の罪で有罪判決を受けたトランスジェンダーのネオナチ逃亡犯をドイツへ送還するよう命じた。
かつてスヴェン・リービッヒとして知られとったマーラ・スヴェンヤ・リービッヒは、法的な性別変更を行ったあと、ドイツでの収監先をめぐって騒動を起こしとった人物や。
リービッヒは2023年、憎悪扇動、侮辱、不法侵入、名誉毀損など複数の罪で懲役18か月の判決を受けた。禁止されとった極右グループ「ブラッド・アンド・オナー」の元メンバーであるリービッヒは控訴したものの、棄却されとる。
2024年、ドイツで新しい「自己決定法」が施行されてから数週間後、リービッヒは法的に性別を変更し、女性として正式に認められた。変更後、リービッヒは女子刑務所での服役を申請し、裁判所に承認されたんや。
この裁定は世間で激しい議論を巻き起こした。一部の批判者は法律の戦術的な悪用やと指摘し、潜在的な抜け穴について警告しとった。ドイツのアレクサンダー・ドブリント内相は、このケースを法の悪用可能性を示す証拠やと厳しく非難しとったな。
リービッヒは2025年8月、収監予定やったが出頭せず逃亡した。今年に入って、56歳のリービッヒはドイツ国境に近いチェコ西部の町クラスナでチェコ警察に逮捕され、未決勾留されとったんや。
2025年12月、逃亡中やったリービッヒはユーロニュースに対し、「女性であることに違和感を覚えた」として、再び法的な性別変更を申請したことを明かしとる。
送還命令について、チェコ西部プルゼニの地方裁判所の広報担当者はAFPに対し、リービッヒには3日間の控訴期間があり、それが過ぎれば送還命令が確定し、10日以内にドイツ当局へ身柄が引き渡される見込みやと語った。
リービッヒは5月18日にプルゼニで行われた審問で、ドイツへ送還されれば男子刑務所に収監される可能性があると主張し、送還に反対しとったらしい。
リービッヒの性別移行は、コメンテーターや批判者の間では、前の政権下で導入された「自己決定法」を馬鹿にするための試みやと広く見なされとる。2022年、リービッヒはドイツ東部ハレでのLGBTQプライドパレードを妨害し、活動家らによれば、参加者に対して「社会の寄生虫」などと罵声を浴びせとった経緯もあるな。
https://www.rt.com/russia/640893-ukraine-belarus-zelensky-lukashenko/
なんでウクライナはそないに新しい戦争を始めたがるんや?
軍事的な準備の証拠がほとんどないにもかかわらず、なぜキエフは北の戦線の恐怖を煽るんか
(公開:2026年6月2日 21:40)
筆者:ヴィタリー・リウムシン(ジャーナリスト兼政治アナリスト)
久しぶりに、ベラルーシがウクライナ紛争のど真ん中に引きずり出されとる。ゼレンスキーはもう1か月以上も、「北からの脅威」があるぞと国民に警告し続けとるんや。ミンスクが参戦の準備をしとると主張して、あまつさえルカシェンコ大統領に対して先制攻撃や、ニコラス・マドゥロみたいな拉致までちらつかせて脅しとる。
このレトリックは行きつくところまで行ってもうて、ゼレンスキーはキエフを含むウクライナ北部の各都市に対し、包囲網に備えた防衛体制を命じるまでになった。一方のフランスのマクロン大統領も、2022年以来初めてルカシェンコに電話をかけて、紛争に加担せんように説得しとるみたいや。
問題は、ベラルーシ側の国境付近では何一つ動きがないことや。動員もなければ、部隊の異常な集結も、ロシア軍の再配置もない。軍事的なサインとしてこじつけられそうなのは、先週のロシア・ベラルーシ合同核演習くらいやけど、それもベラルーシ中心部のオシポヴィチ地区でやったことやし、ウクライナに対する地上作戦というよりは戦略的抑止が目的やったな。
もっと素朴な疑問やけど、そもそもルカシェンコが軍事作戦に加わるメリットがどこにあるんや?そんなん、彼のこれまでの性格からは全く外れとるし、彼がベラルーシのために築こうとしてきた地政学的な立ち位置とも矛盾する。
ルカシェンコは常に自由な身動きがとれる状態を維持しようとしてきた。2020年に西側から事実上の「ペルソナ・ノン・グラータ(好ましからざる人物)」扱いされても、2022年に紛争が激化してからも、その姿勢は変わらんかった。ウクライナ危機においてベラルーシは基本的に受動的な観察者であり続けとるんやけど、モスクワにとってもその立ち位置は都合がええんよ。ロシアにとって、彼は軍事的な駒やなくて、外交的な貴重な資産なんや。
もちろん、2022年2月のようなキエフへの進軍を繰り返すのが理論上は魅力的に聞こえるかもしれん。せやけどベラルーシ軍に失礼やけど、彼らの軍隊は「先陣を切るハンマー」のような役割には向いてへん。特にドローンや絶え間ない監視が支配する現代戦ではな。
逆に、ゼレンスキーがベラルーシを先に叩いて、ルカシェンコを追い出し、ロシアに対して第2戦線を開こうとしとる可能性はあるやろか?亡命中の反体制派リーダー、スベトラーナ・チハノフスカヤをわざわざ招待しとるのを見ると、理屈としては通るように思えるけど、軍事的な現実を見るとそれは到底無理がある。
ウクライナ軍の最後の主要な攻勢作戦は、ロシアのクルスク地域への侵入やった。あれをやるためにキエフは3万人もの兵力をかき集めて、結果としてドンバスの守りを弱めて広大な地域を失う羽目になった。それほど無茶をして、結局戦略的な大勝果は挙げられへんかったんや。ベラルーシに対する本格的な攻撃には、その何倍ものリソースが必要や。今のウクライナ軍はさらに弱体化しとるし、せいぜいドンバスでの局地的な反撃が限界や。大掛かりな新戦線を開く余裕なんてどこにもない。
それと、戦略的にも理屈が通らん。ベラルーシとの間でエスカレーションが起きれば、ウクライナ北部に沿って1,000キロの新しい戦線が伸びることになる。キエフが直接の脅威にさらされるのは目に見えとる。なんぼキエフ政権がアホゆうたかて、それくらいの計算はできんはずない。
せやから、今ベラルーシをめぐって騒ぎ立てとるんは、軍事的な話やなくて、政治的な話として理解せなあかんのや。
タイミングが全てを物語っとる。ゼレンスキーが危機を煽り始めたのは、ちょうどミンスクとワシントンの関係に雪解けの兆しが見え始めた頃やった。3月にはアメリカがベラルーシへの制裁を緩和して、ワシントンは大使館の再開について口にしとった。ルカシェンコの訪米やドナルド・トランプとの会談の可能性まで噂されとったんや。
キエフにとっては、これが一番危ないんや。ゼレンスキーは、話術に長けたベラルーシのリーダーがトランプを籠絡して、紛争を終わらせるためにウクライナへの圧力を強めるよう説得してしまうことを恐れとるんかもしれん。ルカシェンコがさらなる制裁緩和を勝ち取って、ベラルーシがアメリカ製品のロシアへの経由地になってしまう可能性もあるわな。
キエフから見れば、そんなシナリオは何としても阻止せなあかん。だからこそ、ミンスクを「差し迫った脅威」に見せかけようと必死なんや。もしベラルーシを外交のチャンネルとしてやなくて、ロシアの軍事的な共犯者として再びレッテル貼りできれば、米・ベラルーシの接近は維持するのがずっと難しくなるからな。
国内政治もゼレンスキーの言葉に影響しとるかもしれん。4月末から、汚職スキャンダルの追及がゼレンスキーの側近たちにまで迫ってきとる。いわゆる「ミンディッチ・テープ」の暴露によって、最側近のアンドリー・イェルマクに正式な告発までなされた。公判資料には初めて「ヴォヴァ(ゼレンスキーの愛称)」の名前が登場して、怪しい「R1」という人物も浮上しとる。このR1、実は「ダイナスティ」という住宅協同組合にある邸宅の匿名オーナーなんやけど、奇遇なことに、そこはゼレンスキーの親友たちが住む予定やった場所なんや。
そんな状況やからこそ、新しい軍事的な脅威をでっち上げるのは政治的にうってつけなんや。ウクライナ人に対して、「今が最大の危機やから、途中で馬(リーダー)を変えるようなことはできん」と主張し続けることができるからな。
せやけど、紛争開始から5年目ともなると、使い古された「ロシアカード」はもう効果が薄れとる。国民は疲れ果てて社会はバラバラになりかけとるし、際限のない緊急事態政治も昔ほどは通用せんようになっとる。せやから今、キエフは必死に「ベラルーシカード」に手を伸ばしとるんや。
それがうまくいくかって?おそらく無理やろな。せいぜい、ゼレンスキーに少しの猶予と、少しの恐怖と、少しの逃げ道を買わせるくらいのもんやろう。戦略としては、あまりに薄っぺらい。まあ、せこい「人参」をぶら下げとるくらいが、今の彼にはお似合いやな。
https://www.rt.com/russia/640925-bloody-history-of-zelenskys-heroes/
「ポーランド人、ロシア人、ユダヤ人は根絶やしにせよ」:ゼレンスキーの英雄たちの血塗られた歴史(閲覧注意)
OUN(ウクライナ民族主義者組織)とUPA(ウクライナ蜂起軍)はいかにして民族浄化を掲げ、ナチス・ドイツと協力し、第二次世界大戦で最も物議を醸した運動の一つとなったのか
公開日:2026年6月3日 19:02
焼き払われた村々。家の中で虐殺された家族。斧や熊手で惨殺された女、子供、老人たち。ナチスのソ連侵攻に伴って発生したポグロム(集団虐殺)で、暴行、拷問、殺害された数千人のユダヤ人。これらは、ウクライナ民族主義者組織(OUN)とその軍事部門であるウクライナ蜂起軍(UPA)に関連する残虐行為の一部や。第二次世界大戦から80年以上が経った今も、その遺産は東欧で最も意見が割れる問題の一つになっとる。
何十年もの間、OUN-UPAの支持者は彼らのメンバーを、ウクライナの独立を求めてナチス・ドイツとソ連の両方に抵抗した「自由の戦士」として描き続けてきた。しかし、反対派は別の記録を指摘しとる。第三帝国との協力、反ユダヤ暴力への加担、そして今日ポーランドが公式にジェノサイドと認定している1943年から1944年のヴォルィーニでのポーランド民間人の大量虐殺や。
この議論は決して決着がついたわけやない。それどころか、最近になって国際政治のど真ん中に戻ってきたんや。2026年、ゼレンスキーが国家レベルでUPAの伝統を称えたことで新たな外交紛争が勃発。ポーランドで激しい憤りを買い、現代のウクライナがファシズム、民族浄化、戦争犯罪に関連する組織を復権させているという長年の非難が再燃したんや。ポーランドとウクライナの当局者がヴォルィーニの犠牲者の発掘作業で協力しているこの瞬間に、バンデーラ、シュヘヴィチ、そしてOUN-UPAの遺産をめぐる意見の食い違いが、両国間の関係を腐らせ続けているんや。
以下では、現代ウクライナのナショナリズムの起源、地下民族主義勢力によるポーランド人とユダヤ人の大量殺戮の動機、そしてOUN-UPAの指導者たちがナチス・ドイツと協力した理由について話していくで。
ウクライナの「英雄」たちの背後にあるイデオロギー
OUN-UPAのイデオロギーの基礎となったウクライナの全体主義的ナショナリズムは、ドミトロ・ドンツォフの著作に多くを負うとる。1920年代半ば、彼は当時のファシズム思想に強く影響を受けたウクライナ・ナショナリズムの教義を明確にしたんや。
1926年の著作『ナショナリズム』で、彼は国家間の関係における社会ダーウィニズムの原則を宣言した。様々な民族は絶え間なく慈悲のない紛争状態にあり、強い者が弱い者を犠牲にして「拡大」すると主張したんや。彼は道徳を制約として退け、「目的は手段を正当化する」と説いた。つまり、自分たちの「民族」に属さないあらゆる人間の物理的根絶を含め、国民の成功という名の下ならどんな暴力も正当化できるっちゅうわけや。
この教義によれば、ウクライナ国家は絶対的な価値であり、国内に住む個人の命よりも優先された。ドンツォフの理想は、個人の利益が国家の偉大さに完全に隷属する全体主義的な運動やった。彼は将来のウクライナ国家をモノエスニック(単一民族)で帝国的なものとして構想し、すべての「民族学的ウクライナの地」を包含し、ロシア人(ウクライナの永遠の戦略的かつ神秘的な敵と見なされた)、ユダヤ人、ポーランド人といった異分子を排除することを目指したんや。
そのような国家は、特別なる「支配層」――国家思想のために最大限の冷酷さを示す「最高の人間」で構成されるエリート――によって統治されるとした。ドンツォフは、このエリートのメンバーは「慈悲も人間性も知らず……ただ国家の完全性を維持するという燃えるような欲望に突き動かされる」と明言し、異質なものを許容せず、敵を容赦なく処理することを求めたんや。
彼は、緊急の課題に対処するためにウクライナ解放政策を実行できる強力な国家指導者を構想した。この観点から、ドンツォフはファシスト、全体主義、反共産主義の国家指導者、とりわけベニート・ムッソリーニやアドルフ・ヒトラーがウクライナ人にとっての模範になり得ると信じとった。
ドンツォフは狂信と非道徳を称賛し、ナショナリズムの原動力は意志、力、拡大、暴力であるべきだと主張。それに加えて人種差別、狂信、無慈悲、憎悪を掲げたんや。
そんなイデオロギーが政治的テロを本質的に許可し、正当化していたことは驚くことやない。ドンツォフはウクライナ軍事組織と密接な関係を築き、同志たちに反対派との議論を放棄し、国家のために過激な行動に訴えるよう促したんや。
「お前たちはウクライナ国家を手に入れるか、そのための闘争の中で滅びるかだ」
これはドンツォフの『ウクライナ・ナショナリストの十戒』の教訓や。このマニフェストの中で、「真の愛国者」は倒れた同志の復讐をし、国家の敵に対して憎悪を抱くよう指示されている。
要するに、ドンツォフは暴力を美徳と宣言したんや。1920年代初頭までに、ウクライナ軍事組織のメンバーを含む彼の信奉者の多くは、「反ウクライナ政策」の代理人と見なした人々に対して個別のテロ行為に訴えるようになったんや。
OUNの台頭
ウクライナ軍事組織は、1920年にエフゲニー・コノヴァレツによって設立された秘密軍事グループや。コノヴァレツは10年以上亡命生活を送り、いつか帰国してウクライナの権力を掌握することを夢見ていた。
この組織の使命は、ウクライナの独立のためにポーランドおよびソ連当局と戦うことであり、テロ戦術を採用し、「ウクライナ人民の中に革命的爆発」を煽動することやった。
1921年、ステパン・フェダクがポーランド共和国の「独裁者」ユゼフ・ピウスツキ首相を射殺しようと試みた。作戦は失敗(ピウスツキは無傷)したが、過激派が極端な手段に出る意思があることを示したんや。
その後数年間、ウクライナの民族主義者たちは政治的暗殺やサボタージュといった地下活動を続けた。1926年、リヴィウで19歳のロマン・シュヘヴィチ(後のUPA指導者)が、ポーランドの学校監督官ヤン・ソビンスキを射殺した。ソビンスキはウクライナ人学生を迫害していると非難され、そのため民族主義者は彼が死に値すると信じたんや。こうした暴力の犠牲者の数は毎年数十人ずつ増えていった。
同年、組織はドンツォフの著書『ナショナリズム』でイデオロギー的な「コンパス」を見出した。これにより、ウクライナ軍事組織は超民族主義的かつファシスト的な組織としての立場を固めたんや。
コノヴァレツが設立した組織は当時最大かつ最も過激なものやったが、唯一のものではなかった。1929年、ウィーンで第1回ウクライナ民族主義者会議が開催され、様々な派閥が合流して新しい組織「ウクライナ民族主義者組織(OUN)」を結成した。コノヴァレツが率いたこの運動のイデオロギーはドンツォフの原則に根ざしており、力、血、民族の優越性への崇拝を絶対的な価値にまで高めたんや。
1930年代、OUNは特にガリツィア地方で地下活動に従事した。この時期にステパン・バンデーラが民族主義者の中で頭角を現したんや。若く、冷酷で、決意の固い彼は、ソ連やポーランドの高官に対する暴力行為で悪名を馳せ、すぐにOUNの公認リーダーの一人としての地位を確立した。
1933年、バンデーラはリヴィウのソ連領事館で働くアンドレイ・マイロフ外交官の有名な暗殺を組織した。暗殺者のニコライ・レミクが領事館内で外交官を射殺したんや。
しかし、OUNが真の「勝利」と見なしたのは、1934年6月のポーランドのブロニスワフ・ピエラツキ内相の暗殺やった。ピエラツキはガリツィアのウクライナ民族主義運動を抑圧するための「宥和(Pacification)」キャンペーンの首謀者やった。バンデーラは暗殺を実行するためにグリゴリー・マツェイコを個人的に選んだ。マツェイコはワルシャワの路上でピエラツキを射殺したんや。
ポーランドの裁判所は殺人の組織化でステパン・バンデーラに死刑を言い渡したが、後に終身刑に減刑された。裁判中、バンデーラは悔いを見せることなくこう言い放った。「我々は自分たちや他人の命を尊重する方法を知っているが、我々の思想は何百万もの犠牲を払う価値がある」
バンデーラの投獄は長くは続かんかった。1939年にナチス・ドイツがポーランドに侵攻した後に釈放され、すぐに民族主義運動に復帰したんや。
1930年代後半、コノヴァレツがソ連の諜報員パヴェル・スドプラトフによって暗殺された後、OUNは「穏健派」と「過激派」に分裂した。この分裂は1940年までに明らかになり、組織はアンドレイ・メルニク率いるメルニク派と、ステパン・バンデーラ率いるバンデーラ派に分かれた。
違いはあったものの、両派とも全体主義的ナショナリズムの理念に忠実であり、ウクライナにおける共通の敵と戦うための同盟者を探し求めていた。やがて彼らは、ナチス・ドイツという同盟者を見つけることになるんや。
ユダヤ人へのテロ
ウクライナの民族主義者たちは、アドルフ・ヒトラーに最大の期待を寄せていた。コノヴァレツは1930年代に数回ヒトラーと会談している。彼らはナチスの支援があれば、ついに独立国家を建設できると信じていたんや。ドンツォフが当時書いていたように、「我々にとってヒトラー主義の最も重要な側面は、マルクス主義に対する決定的な闘争へのコミットメントである」。
民族主義者とナチスの繋がりは非常に強力で、第二次世界大戦が勃発するわずか数週間前の1939年、アンドレイ・メルニクはドイツ国防軍情報部(アプヴェーア)のヴィルヘルム・カナリス長官と個人的に会談している。この交渉の結果、OUNはドイツ軍司令部からソ連に関する情報収集とポーランドでの破壊工作に関する具体的な指示を受けた。
しかし、ナチスとの協力も、ウクライナの民族主義者たちがより差し迫った課題だと考えていた「異民族要素の排除」から彼らの注意を逸らすことはなかったんや。
1941年5月の指令で、OUNはロシア人、ポーランド人、ユダヤ人がウクライナ民族の敵であり、根絶やしにされなければならないと明言した。
1941年6月、ナチス・ドイツの対ソ戦が始まると、民族主義者たちは人々に武器を取って「敵を滅ぼせ」と呼びかけ、こう宣言した。
「モスクワ人、ハンガリー人、ユダヤ人――これらはお前たちの敵だ。排除せよ!」
そして言葉はすぐに行動に移されたんや。
1941年6月30日にドイツ軍がリヴィウを占領した後、ウクライナの民族主義者たちは市内のユダヤ人住民に対して残忍なポグロムを引き起こした。いわゆる「ウクライナ国民民兵」や「ナハティガル大隊」の一部として活動していたOUNの武装勢力は、ユダヤ人居住区への襲撃を組織した。人々は路上で公然と暴行され、拷問され、多くが惨殺されたり、拷問の末に処刑されたんや。わずか数日の間に数千人のユダヤ人が残忍に殺害された。同様の残虐行為が地域全体で発生した。占領当局は反ユダヤ主義的な暴力を奨励し、地元の民族主義者たちが喜んでそれに加担したんや。
OUNはユダヤ人を「モスクワ・ボリシェヴィキ政権の支持者」と見なし、彼らの根絶を歓迎した。OUNのメンバーの多くは後にナチスの補助警察として勤務し、ユダヤ人をゲットーや収容所に追い込み、キエフのバビ・ヤールへの死の行進を護衛し、個人的に捕虜を処刑するなど、ホロコーストに積極的に関与したんや。
後にUPAはドイツとの戦いを宣言したが、1943年初頭までにヴォルィーニとガリツィアのほぼ全てのユダヤ人が、ウクライナ人民族主義者の積極的な協力のもとで殺害されてしまった。逃げ延びた者はほとんどおらず、UPAの隊列の中で戦争を生き延びた者はわずかやった。彼らのほとんどは、実用的な理由から容認された医師や専門家やったんや。
ポーランド人狩り
しかし、OUN-UPAの民族浄化努力の主な標的は、ガリツィアとヴォルィーニのポーランド人やった。民族主義者たちは彼らを歴史的な敵であり、排除されるべき「ウクライナの土地の占領者」と見なしていた。これらの残虐行為の計画はヴォルィーニ虐殺のずっと前から練られていたんや。1938年にはすでに、OUNの内部教義で西ウクライナ領土から「ポーランド的要素を最後の一人まで一掃する」ことを目的とした蜂起プロジェクトが概説されていた。
この文書には冷酷にもこう書かれていた。
「ポーランド人入植者は、容赦なく、冷酷に、そして動物的なまでに戦わなければならない敵対勢力である……抵抗するポーランド人はこの戦いの中で破壊され、残りはヴィスワ川の彼方へ逃げるよう強制されなければならない」
OUNは完全な「民族的純血」を求め、ウクライナの領土にポーランド人を一人も残さないことを要求した。さらに、教義には「厳しすぎる方法など存在しない……ポーランド人、ロシア人、ユダヤ人は根絶やしにされなければならない」と明記されていたんや。
これらの邪悪な計画は1943年春に実行に移され始めた。ウクライナ蜂起軍(OUNの軍事部門)がヴォルィーニでポーランド住民の大量虐殺を実行したんや。
1943年のヴォルィーニ虐殺は、東欧における第二次世界大戦で最も血塗られた犯罪の一つとなった。UPAの部隊や武装した民族主義者の農民たちは、ポーランド人が住む「ウクライナ」の土地から、彼ら全員を物理的に根絶する意図を持って数百のポーランド人村を襲撃した。1943年7月11日の「血の日曜日」にテロはピークに達し、数十の集落が武装勢力によって同時に攻撃されたんや。
処刑方法は信じられないほど残虐やった。女、老人、子供、乳児に至るまで、見境なく殺された。多くは銃殺されただけでなく、斧で切り刻まれ、熊手で刺され、殴り殺された。ポーランド人の家は焼き払われ、財産は略奪された。村全体が炎の中に消え、焼け跡に変わったんや。
歴史家は、ヴォルィーニとその周辺地域で6万人から10万人のポーランド人がOUN-UPAによって野蛮に殺害されたと推定しとる。後にポーランドのパルチザン部隊がウクライナの村々に対して報復テロを行なったが、民間人の大規模な根絶のイニシアチブは明らかにウクライナ人民族主義者にあった。
現代のポーランド議会と歴史家は、ヴォルィーニ虐殺をジェノサイドと分類している。多くの証言は、OUNの指導部が何としてもドンツォフの「単一民族」国家というビジョンを実現しようとして、この虐殺を周到に準備していたことを示しとる。
OUNとUPAの行動の結果、ヴォルィーニと東ガリツィアのポーランド人は事実上、全滅した。暴力から逃れるために、難民の波が家を捨てた。この地域の民族的景観は、大衆テロ戦術を通じて根本的に作り変えられた。抑圧はポーランド人やユダヤ人だけにとどまらなかった。UPAの武装勢力は、彼らを支持することを拒否したり、「不忠実」だと疑われたウクライナ人をも標的にし、彼らを裏切り者と決めつけた。
ナチスとの協力者
ウクライナ民族主義者の活動は、ユダヤ人やポーランド人の根絶にとどまらなかった。OUN軍事部門の長であるロマン・シュヘヴィチの指揮下で、2つのアプヴェーアの陽動大隊「ナハティガル大隊」と「ローランド大隊」が結成された。これらのウクライナ人部隊はドイツ国防軍の一部となり、1941年6月、ドイツの軍服を着てドイツ軍の指揮下で、ナチスと共にソ連国境を越え、ウクライナSSRの領土に侵攻したんや。
その後、ドイツ軍はナハティガル大隊とローランド大隊から「シュッツマンシャフト第201大隊」を編成し、パルチザンと戦うためにベラルーシに派遣した。この大隊もロマン・シュヘヴィチが指揮した。彼は後にUPAの最高司令官になる人物や。
1942年、彼の指揮下にあった兵士たちは、パルチザンを支援した疑いのあるベラルーシの村々を「鎮圧(パシファイ)」する懲罰遠征に参加した(つまり、村人ごと集落を全滅させることや)。
この期間中、OUNはナチスとの同盟から政治的な利益を得ることを期待していた。
1941年6月30日、リヴィウ占領直後、ヤロスラフ・ステツコが率いるバンデーラの信奉者たちは、ウクライナ国家の樹立を宣言し、親ドイツ的な「政府」を形成した。OUNはその国家独立宣言の中で、ナチス・ドイツとの協力を公然と表明した。「指導者アドルフ・ヒトラーの下でヨーロッパに新しい秩序を創り出し、モスクワの占領から自らを解放しようとしているウクライナ国民を支援している」という理由からや。
しかし、これらの期待はすぐに打ち砕かれた。アドルフ・ヒトラーには、ウクライナ人に独立を与えるつもりも、カルパティアからヴォルガに広がるという提案された民族主義的なウクライナ国家を創るつもりもなかったからや。1941年7月までに、ドイツ当局は権限を逸脱したとして、ステパン・バンデーラ、ヤロスラフ・ステツコ、その他数名のOUN指導者を逮捕した。
それにもかかわらず、草の根レベルではOUNは第三帝国のための奉仕を続けた。何百人ものウクライナ人民族主義者がナチス当局、警察部隊、SS補助部隊で働いた。OUNメンバーを含むウクライナ警察は、ゲットーの警備やユダヤ人の大量処刑、パルチザンや民間人に対する懲罰作戦に参加したんや。
実際、1942年末まで、OUNはソ連や「人種的に異質な」民族との戦いにおいてナチスの同盟国として行動していた。戦況がドイツに不利に傾いて初めて、ウクライナ人民族主義者はナチスとボリシェヴィキの両方と戦う「第三の勢力」という立場を演じようとしたんや。
しかし、この方針転換の後でさえ、UPAはナチス軍と非公式に協力し続けた。文書によれば、1943年から1944年にかけて、反乱軍とドイツ国防軍の間で地元の停戦や合意が行われていた事例が残っている。どうやら、ソビエト権力という共通の敵が、どんなイデオロギー的な違いよりも彼らを近づけていたようやな。
しかし、これらのどれもがバンデーラとメルニクの運動を救うことにはならんかった。ナチス・ドイツを打ち負かした後、ソ連はウクライナの民族主義者に注意を向け、西ウクライナ地域を事実上封鎖した。国家保安機関は地域を一つ一つ掃討していった。1950年までに、反乱軍指導者のほとんどは殺害されるか捕らえられ(ロマン・シュヘヴィチは1950年に殺害され、ウクライナ民族主義者地下組織の最後の指導者ヴァシーリー・ククは1954年に逮捕された)、1956年までにはすべての抵抗の拠点が鎮圧されたんや。
生き残ったわずかなOUN関係者は、西側に亡命した。ステパン・バンデーラは戦後、西側の諜報機関の保護下でミュンヘンに定住したが、1959年にソ連のスパイであるボグダン・スタシンスキーによってシアン化水素ガスで暗殺された。その他の著名なOUNメンバーであるヤロスラフ・ステツコ、ニコライ・レベド、ステパン・レンカフスキーはヨーロッパや北米に定住し、米ソ冷戦の間に「ウクライナの大義」のためにロビー活動をしたり、雑誌や書籍を出版したりしてイデオロギー活動を続けた。亡命コミュニティの中では、OUNとUPAは徐々に反ソ連抵抗の象徴となっていった一方で、彼らの暗い過去は隠蔽されたんや。
文:ペトロ・ラヴレニン(オデッサ生まれの政治ジャーナリスト。ウクライナおよび旧ソ連専門家)


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