日本人は「島国根性」なのか?違うと思う。
日本人が「島国根性」だったのは1925年〜1940年生まれの世代だけじゃないのか。
日本人は島国根性で、それを江戸時代の鎖国政策によるものだという人がいた。そう言われればそうかなあと今まで思っていたのだけれど、最近は「島国根性」という言葉すら聞かなくなった。江戸時代から脈々とつづく精神的伝統ならそんなすぐになくならないと思うので、鎖国と島国根性を結びつけたのは牽強付会だったにちがいない。「島国根性」と日本人を罵倒していた世代の人たちが、死に絶えたのかもしれない。たしかに日本人が内向きだった世代があるのだが、それはたぶん1925年から1940年の間に生まれた人だけのことじゃないかと思う。
東亞同文書院がつくられたのが1900年、その年に義和団事件があった。その4年後の1904年、日露戦争開戦の年に我が輩の母方の祖母、右田リウが生まれた。
祖母が生まれた前後にはペナン(マレーシア)に日本人墓地ができているし(1890年)、香港に刺青師が4人いて、シンガポールには1902年に日本人向けの妓楼が83軒あって娼婦が611人いた。日露戦争開戦の年にはシンガポールには越後屋ができた。
祖母も少女地代を台湾ですごしたらしい。その頃、多くの日本人の目は南洋をはじめ海外に向いていて、その世代にとって海外は身近だったにちがいなく、島国根性云々ということもなかったんではなかろうか。
日本で英語が「敵性語」認定され、ベースボールが野球、デッドボールが死球など外来語のことごとくが言い換えられはじめたのが1940年。そのころまでふつうの日本人にとって戦争による物資窮乏はあんまり感じられなかったという話がある。悪名高い「欲しがりません勝つまでは」という標語が1942年なので、そのころ物資窮乏で金属拠出とかやっていたのだろう。日本がドツボになると同時にとんでもなく内向きになったころには、祖母リウはすでに30代後半になっている。
作家の司馬遼太郎は1923年生まれで、大阪外大でモンゴル語を勉強してから満州で戦車隊の下士官になった。きっと満州の大地から昇る朝日や沈む夕日を見たにちがいない。だから考えることが鳥瞰的になったんじゃないだろうか。我が恩師の長田夏樹教授は、まえにもブログに書いたけれど1920年に生まれて東京外大でモンゴル語を勉強し、中国でうろうろしていた。長田先生は我が輩に、中国語だけじゃなくて朝鮮語やモンゴル語や満州語などアルタイ語をやったら面白いよと勧めてくれた。ぜんぜん世界観が違った。
我が輩の父は1926年2月生まれなので、昭和と年齢が一致している。父の世代こそ、ドツボにはまりつつある内向き日本の雰囲気を呼吸しながら成長したにちがいない。父の家は貧しかったので、司馬さんや長田教授みたいに高等教育はとてもじゃないが受けれなかったのだが、それにしてもこのあたりの数年のちがいは大きいと思う。そしてそれ以降は日本と日本をとりまく状況がどんどん悪くなる一方だったので、ひとくくりにしていいと思う。厚生省が結婚十訓とやらで「産めよ殖やせよ」といったのが1939年。この期に及んで男子を産んで育てて兵隊にするまで日本が持つと思っていたのだろうか。そんな盲目的な国家のスローガンに易々と載せられるそのころの親のこどもであれば、外向き思考には育てられなかっただろうと思う。だからざっくりと、1925年から1940年の間に生まれた人たちは目を外に向けることを禁じられていて、それがのちになって「島国根性」という認識につながったと仮定しよう。それ以前の人たちにとって南洋とかアジアは身近だったし、それ以降の団塊の世代は、こないだブログに書いたように、恐るべきエネルギーで世界の隅々の路傍の飯屋や最低の売春宿まで開拓した。
朝鮮戦争で日本の景気が上向き始めるのが1950年。そのころ島国根性世代は10歳から25歳。「もはや戦後ではない」といわれた1956年には16歳から30歳。高度経済成長がはじまった1970年には30歳から45歳。今年は2015年なので、父が生きていれば89歳。島国根性世代は75歳から90歳になっていて、育ち盛りから中年になるまで窮乏と、出口の見えない激しい労働がかりでロクなことがなかった世代は、「島国根性」という言葉とともに死に絶えつつある。
老人犯罪が話題になることがあるけれど、彼ら彼女らは哀れな島国根性世代の最後の人たちなのではないだろうか。
日本人は島国根性で、それを江戸時代の鎖国政策によるものだという人がいた。そう言われればそうかなあと今まで思っていたのだけれど、最近は「島国根性」という言葉すら聞かなくなった。江戸時代から脈々とつづく精神的伝統ならそんなすぐになくならないと思うので、鎖国と島国根性を結びつけたのは牽強付会だったにちがいない。「島国根性」と日本人を罵倒していた世代の人たちが、死に絶えたのかもしれない。たしかに日本人が内向きだった世代があるのだが、それはたぶん1925年から1940年の間に生まれた人だけのことじゃないかと思う。
東亞同文書院がつくられたのが1900年、その年に義和団事件があった。その4年後の1904年、日露戦争開戦の年に我が輩の母方の祖母、右田リウが生まれた。
祖母が生まれた前後にはペナン(マレーシア)に日本人墓地ができているし(1890年)、香港に刺青師が4人いて、シンガポールには1902年に日本人向けの妓楼が83軒あって娼婦が611人いた。日露戦争開戦の年にはシンガポールには越後屋ができた。
祖母も少女地代を台湾ですごしたらしい。その頃、多くの日本人の目は南洋をはじめ海外に向いていて、その世代にとって海外は身近だったにちがいなく、島国根性云々ということもなかったんではなかろうか。
日本で英語が「敵性語」認定され、ベースボールが野球、デッドボールが死球など外来語のことごとくが言い換えられはじめたのが1940年。そのころまでふつうの日本人にとって戦争による物資窮乏はあんまり感じられなかったという話がある。悪名高い「欲しがりません勝つまでは」という標語が1942年なので、そのころ物資窮乏で金属拠出とかやっていたのだろう。日本がドツボになると同時にとんでもなく内向きになったころには、祖母リウはすでに30代後半になっている。
作家の司馬遼太郎は1923年生まれで、大阪外大でモンゴル語を勉強してから満州で戦車隊の下士官になった。きっと満州の大地から昇る朝日や沈む夕日を見たにちがいない。だから考えることが鳥瞰的になったんじゃないだろうか。我が恩師の長田夏樹教授は、まえにもブログに書いたけれど1920年に生まれて東京外大でモンゴル語を勉強し、中国でうろうろしていた。長田先生は我が輩に、中国語だけじゃなくて朝鮮語やモンゴル語や満州語などアルタイ語をやったら面白いよと勧めてくれた。ぜんぜん世界観が違った。
我が輩の父は1926年2月生まれなので、昭和と年齢が一致している。父の世代こそ、ドツボにはまりつつある内向き日本の雰囲気を呼吸しながら成長したにちがいない。父の家は貧しかったので、司馬さんや長田教授みたいに高等教育はとてもじゃないが受けれなかったのだが、それにしてもこのあたりの数年のちがいは大きいと思う。そしてそれ以降は日本と日本をとりまく状況がどんどん悪くなる一方だったので、ひとくくりにしていいと思う。厚生省が結婚十訓とやらで「産めよ殖やせよ」といったのが1939年。この期に及んで男子を産んで育てて兵隊にするまで日本が持つと思っていたのだろうか。そんな盲目的な国家のスローガンに易々と載せられるそのころの親のこどもであれば、外向き思考には育てられなかっただろうと思う。だからざっくりと、1925年から1940年の間に生まれた人たちは目を外に向けることを禁じられていて、それがのちになって「島国根性」という認識につながったと仮定しよう。それ以前の人たちにとって南洋とかアジアは身近だったし、それ以降の団塊の世代は、こないだブログに書いたように、恐るべきエネルギーで世界の隅々の路傍の飯屋や最低の売春宿まで開拓した。
朝鮮戦争で日本の景気が上向き始めるのが1950年。そのころ島国根性世代は10歳から25歳。「もはや戦後ではない」といわれた1956年には16歳から30歳。高度経済成長がはじまった1970年には30歳から45歳。今年は2015年なので、父が生きていれば89歳。島国根性世代は75歳から90歳になっていて、育ち盛りから中年になるまで窮乏と、出口の見えない激しい労働がかりでロクなことがなかった世代は、「島国根性」という言葉とともに死に絶えつつある。
老人犯罪が話題になることがあるけれど、彼ら彼女らは哀れな島国根性世代の最後の人たちなのではないだろうか。
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