ピエール・バイヤール「読んでいない本について堂々と語る方法」筑摩書房
フェースブックにも書いたけど、ここにも書く。
これほど刺激的な本を読んだことがない。
大学の先生でもある著者は本書の序文で、読書に関する3つの「決定的な」規範を列挙する。
第1に読書義務。われわれはいまだ読書が神聖なものと見なされている社会で生きている。
第2に通読義務。飛ばし読みや流し読みはまったく読まないのと同じくらいよくないことであり、とりわけそれを公害してはならない。
第3に本について語ることに関する規範。ある本について多少なりとも正確に語るためには、その本を読んでいなければならないという考え。
著者はこういう。
「ところが私の経験によれば、読んだことのない本について面白い会話を交わすことはまったく可能である。会話の相手がそれを読んでいなくてもかまわない。むしろそのほうがいいくらいだ。」
「義務や禁止からなるこの規範の体系は、結果として人々のうちに読書に関する偽善的態度を生み出した。(中略)学者のあいだでは、上記の3つの規範のせいで、嘘をつくことは当たり前になっている。本が重んじられる世界であればこそ、嘘も横行するというわけだ。」
つかみは最高。
著者は完全非読派(本はいっさい読まないが、本を知らないわけでも本について語らないわけでもない)の例として、ローベルト・ムージルの「特性のない男」に出ている図書館司書をあげる。この小説は前世紀初頭のオーストリア・ハンガリー帝国。皇帝の誕生日を機に人類救済の模範を示そうという「並行運動」の責任者たちが追い求める「救済的思想」について、当の責任者たちが大言壮語をならべたてるだけで、それがどのようなものであるのか、どうやって他国で救済的役割を果たしうるのか、ひとつもわかっていない。そのひとり、シュトゥム将軍は「敵の兵力をはっきり見届ける」と同時にその独創的な思想を系統的に見つけ出すため、帝国図書館に赴く。帝国図書館の350万冊の蔵書を読むには1万年かかると将軍は計算する。
司書学博士号をもつ司書は言う。
「どうして私がぜんぶの本を識っているか知りたいとおっしゃるのですね、閣下?それは一冊も読まないからなのです。」その司書は無教養からではなく、本をよりよく知るためにそうしているというのだ!
著者は言う。
本を読むことは、本を読まないことと表裏一体である。本を読むことを通じて、別の人生で読んだかもしれないすべての本から目を背けているのである、と。そして、「ある本を深く読むがそれを位置付けられない者と、いかなる本のなかにも入って行かないが、すべての本のあいだを移動する者の、どちらがよりよい読者だといえるだろうか?」(47ページ)と問う。
結びの部分で著者の主張の深みは最高潮に達する。
「学生たちは学校で本の読み方や本について語る方法は教わっているが、読んでいない本について語る方法を教えることは学校のプログラムから奇妙なことに欠けている。ある本について語るためにはそれを読んでいなければならないという公準が疑問に付されたことは一度もないようである。(中略)つまり、教育が書物を脱神聖化するという教育本来の役割をじゅうぶん果たさないので、学生たちは自分の本を書く権利が自分たちにあるとは思えないのである。あまりに多くの学生が、書物に払うべしとされる敬意と、書物は改変してはならないという禁忌によって身動きをとれなくされ、本を丸暗記させられたり、本に「何が書いてあるか」を言わされたりすることで、自分が持っている逃避の能力を失い、想像力がもっとも必要とされる場面で想像力に訴えることを自らに禁じている。(中略)我々が学生たちにできる贈り物として、創造の、つまり自己創造のさまざまな技術に対する感受性を養うことほど素晴らしい贈り物があるだろうか。あらゆる教育は、それを受けるものを助け、彼らが作品に対してじゅうぶんな距離をとり、みずから作家や芸術家になることができるよう導くべきだろう。」
+++++
我が輩の母は読んだ本で重要と思うところに線を引く。そして母はその本を2度と読まない。古本屋で買った本にも線を引いたものがある。しかし線を引いた元所有者はもうその本を読まない。おそらく線を引いた箇所の内容も忘れているにちがいない。彼ら彼女らは線を引くという「作業」によって自分がその本を読んだ証拠を物理的に残す。あたかも未知の単語に出会った受験生が意味を辞書で調べ、単語帳に記録するように。しかしそれは過去に作業をしたという物理的証拠にすぎない。その単語が文章のなかでどういう位置付けをもつか、それがわかったら単語そのものの意味などもはやどうでもいいはずなのだが。
さらに我が輩は、そのむかし池田大作の「人間革命」をほとんどむりやり読まされたことを思いだす。「人間革命」は読んだ瞬間に内容を忘れてしまうたぐいの本だった。だから我が輩はあるときから、それは我が輩の責任ではなく池田大作の文章に内容がないせいだと考えるようになった。山口那津男も遠藤乙彦も太田昭宏も、池田大作の文章をお経のように暗唱し、それを忠実に任意に再生できる能力で出世した。彼らは「並行運動」についても「救済的思想」についても延々と語ることができるが、その思想がどのようなものであるのかを語ることはないし、どうやって救済的役割を果たすかについては、聖教新聞販売と投票と献金という三位一体教義を繰り返しているだけだ。
再び著者の言葉を引用しよう。
・・・あまりに多くの学生が、書物に払うべしとされる敬意と、書物は改変してはならないという禁忌によって身動きをとれなくされ、本を丸暗記させられたり、本に「何が書いてあるか」を言わされたりすることで、自分が持っている逃避の能力を失い、想像力がもっとも必要とされる場面で想像力に訴えることを自らに禁じている。
かくして組織は自己目的化する。
これほど刺激的な本を読んだことがない。
大学の先生でもある著者は本書の序文で、読書に関する3つの「決定的な」規範を列挙する。
第1に読書義務。われわれはいまだ読書が神聖なものと見なされている社会で生きている。
第2に通読義務。飛ばし読みや流し読みはまったく読まないのと同じくらいよくないことであり、とりわけそれを公害してはならない。
第3に本について語ることに関する規範。ある本について多少なりとも正確に語るためには、その本を読んでいなければならないという考え。
著者はこういう。
「ところが私の経験によれば、読んだことのない本について面白い会話を交わすことはまったく可能である。会話の相手がそれを読んでいなくてもかまわない。むしろそのほうがいいくらいだ。」
「義務や禁止からなるこの規範の体系は、結果として人々のうちに読書に関する偽善的態度を生み出した。(中略)学者のあいだでは、上記の3つの規範のせいで、嘘をつくことは当たり前になっている。本が重んじられる世界であればこそ、嘘も横行するというわけだ。」
つかみは最高。
著者は完全非読派(本はいっさい読まないが、本を知らないわけでも本について語らないわけでもない)の例として、ローベルト・ムージルの「特性のない男」に出ている図書館司書をあげる。この小説は前世紀初頭のオーストリア・ハンガリー帝国。皇帝の誕生日を機に人類救済の模範を示そうという「並行運動」の責任者たちが追い求める「救済的思想」について、当の責任者たちが大言壮語をならべたてるだけで、それがどのようなものであるのか、どうやって他国で救済的役割を果たしうるのか、ひとつもわかっていない。そのひとり、シュトゥム将軍は「敵の兵力をはっきり見届ける」と同時にその独創的な思想を系統的に見つけ出すため、帝国図書館に赴く。帝国図書館の350万冊の蔵書を読むには1万年かかると将軍は計算する。
司書学博士号をもつ司書は言う。
「どうして私がぜんぶの本を識っているか知りたいとおっしゃるのですね、閣下?それは一冊も読まないからなのです。」その司書は無教養からではなく、本をよりよく知るためにそうしているというのだ!
著者は言う。
本を読むことは、本を読まないことと表裏一体である。本を読むことを通じて、別の人生で読んだかもしれないすべての本から目を背けているのである、と。そして、「ある本を深く読むがそれを位置付けられない者と、いかなる本のなかにも入って行かないが、すべての本のあいだを移動する者の、どちらがよりよい読者だといえるだろうか?」(47ページ)と問う。
結びの部分で著者の主張の深みは最高潮に達する。
「学生たちは学校で本の読み方や本について語る方法は教わっているが、読んでいない本について語る方法を教えることは学校のプログラムから奇妙なことに欠けている。ある本について語るためにはそれを読んでいなければならないという公準が疑問に付されたことは一度もないようである。(中略)つまり、教育が書物を脱神聖化するという教育本来の役割をじゅうぶん果たさないので、学生たちは自分の本を書く権利が自分たちにあるとは思えないのである。あまりに多くの学生が、書物に払うべしとされる敬意と、書物は改変してはならないという禁忌によって身動きをとれなくされ、本を丸暗記させられたり、本に「何が書いてあるか」を言わされたりすることで、自分が持っている逃避の能力を失い、想像力がもっとも必要とされる場面で想像力に訴えることを自らに禁じている。(中略)我々が学生たちにできる贈り物として、創造の、つまり自己創造のさまざまな技術に対する感受性を養うことほど素晴らしい贈り物があるだろうか。あらゆる教育は、それを受けるものを助け、彼らが作品に対してじゅうぶんな距離をとり、みずから作家や芸術家になることができるよう導くべきだろう。」
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我が輩の母は読んだ本で重要と思うところに線を引く。そして母はその本を2度と読まない。古本屋で買った本にも線を引いたものがある。しかし線を引いた元所有者はもうその本を読まない。おそらく線を引いた箇所の内容も忘れているにちがいない。彼ら彼女らは線を引くという「作業」によって自分がその本を読んだ証拠を物理的に残す。あたかも未知の単語に出会った受験生が意味を辞書で調べ、単語帳に記録するように。しかしそれは過去に作業をしたという物理的証拠にすぎない。その単語が文章のなかでどういう位置付けをもつか、それがわかったら単語そのものの意味などもはやどうでもいいはずなのだが。
さらに我が輩は、そのむかし池田大作の「人間革命」をほとんどむりやり読まされたことを思いだす。「人間革命」は読んだ瞬間に内容を忘れてしまうたぐいの本だった。だから我が輩はあるときから、それは我が輩の責任ではなく池田大作の文章に内容がないせいだと考えるようになった。山口那津男も遠藤乙彦も太田昭宏も、池田大作の文章をお経のように暗唱し、それを忠実に任意に再生できる能力で出世した。彼らは「並行運動」についても「救済的思想」についても延々と語ることができるが、その思想がどのようなものであるのかを語ることはないし、どうやって救済的役割を果たすかについては、聖教新聞販売と投票と献金という三位一体教義を繰り返しているだけだ。
再び著者の言葉を引用しよう。
・・・あまりに多くの学生が、書物に払うべしとされる敬意と、書物は改変してはならないという禁忌によって身動きをとれなくされ、本を丸暗記させられたり、本に「何が書いてあるか」を言わされたりすることで、自分が持っている逃避の能力を失い、想像力がもっとも必要とされる場面で想像力に訴えることを自らに禁じている。
かくして組織は自己目的化する。
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