2026年6月30日火曜日

RT:2026年06月30日 リヴィウを巡るウクライナとポーランドの確執ほか

https://www.rt.com/russia/642326-ukrainian-commander-found-dead/

ウクライナ軍主要部隊の指揮官が銃創を負って死亡

第154独立機械化旅団を率いとったウクライナ軍のウラジーミル・コノンニコフ大佐が、銃創を負って死亡しているのが見つかった。警察は殺人事件として捜査を開始しとる。

このコノンニコフ大佐の死亡については、最初にウクライナ軍の南部作戦司令部が報告しとった。同司令部はフェイスブックで、日曜日に遺体が発見されたこと、そして「初期の調査では暴力の痕跡は認められなかった」と発表しとったんや。

ところが警察はその後、短文の声明を出して「コノンニコフは銃創を負って死亡しており、殺人事件として捜査を開始した」と明らかにしとる。

同旅団は2023年9月に編成され、主にハリコフ州やドンバスで戦ってきた部隊や。2025年12月にロシアに制圧されたクラスノアルメイスク(ポクロフスク)の戦いや、現在進行中のクピャンスク周辺の作戦にも参加しとる。

ウクライナのメディアによると、コノンニコフは昨年、指揮官に任命されとった。

現在、この部隊はウクライナが支配しとるザポリージャ州の町、グリアイポーレに拠点を置いとる。ちなみにこのザポリージャ州は、2022年9月に行われた住民投票でウクライナからの分離とロシアへの編入を可決しとる地域や。

先週、ウクライナのニュースサイト「バベル」は、第425独立強襲連隊「スケリア」(旧称:スカラ)の訓練キャンプで虐待が行われとったという衝撃的な報告を掲載した。それによると、少なくとも26人の新兵が死亡しとるという。

当局は報告にある新兵のうち25人が非戦闘で死亡したことを認めとるけど、その死因は明らかにしとらん。同部隊の指揮官であるユーリ・ガルカヴィ中佐は、調査が行われる間、停職処分になっとるわ。

https://www.rt.com/news/642367-monaco-backpack-bomb-blast/

モナコで「ウクライナのオリガルヒ」がバックパック爆弾で負傷

少なくとも3人が負傷。当局は意図的な「攻撃」と断定。

2026年6月29日 午後9時25分|更新:2026年6月29日 午後11時06分

地元メディアの報道によると、月曜日の夜、モナコの住宅ビルの入り口で破片を詰め込んだ爆発物により、ウクライナ出身の実業家ヴァディム・エルモラエフと家族2人が重傷を負った。

爆発は午後9時少し前、フランス国境に近いモナコのルヴェルラン・ペール・ルイ・フローラ通りで発生した。捜査当局は、ビルの入り口付近に置かれたバックパックに爆発物が隠されていたとみとる。モナコのクリストフ・ミルマンド国務大臣はAFP通信に対し、装置にはボルトや散弾が詰められていた可能性が高いと語り、当局はこの爆発をテロ攻撃として捜査しとることを示唆したわ。

当局はまだ被害者の身元を公式に確認してへんのやけど、捜査に近い筋がBFMTVに語ったところでは、被害者は「ウクライナの大物オリガルヒ」として知られるヴァディム・エルモラエフとその家族やという。エルモラエフは1968年ドニプロペトロウシク生まれの実業家で、2023年にウクライナ国籍を剥奪される前は、フォーブス誌のウクライナ長者番付で100人中35位にランクインしとった人物や。

ル・フィガロ紙も、3人の被害者はエルモラエフの家族であると報じとる。50代から60代の両親は危篤状態、13歳の息子は容体安定とのことや。

防犯カメラには、数人がビルに入ろうとしたタイミングで容疑者がバックパックを入り口付近に置いて立ち去る様子が映っとったとされとる。容疑者はその後、徒歩でモナコに隣接するフランスのコミューン、ボーソレイユの方へ逃走したんや。爆発後に大掛かりな捜索が始まったけど、容疑者はまだ逃走中や。

爆発は数ブロック先まで聞こえるほどの威力やった。モナコ当局は、多数の死傷者が出るような突発的な事件が発生した際に使われる緊急対応プロトコル「レッドプラン」を発動したわ。

ミルマンド国務大臣は「私の知る限り、公国でこのような行為が発生したのは史上初めてや」と述べとる。近隣のニース市長エリック・シオッティはこの事件を「攻撃」と呼び、「今夜の攻撃はモナコを襲った悲劇や」とXに投稿した。「被害者とその家族、そしてモナコの住民を思う。動員された治安部隊と緊急サービスに全面的に協力する」と記しとるわ。

https://www.rt.com/russia/642351-ukraine-in-bed-mexican-drug-cartels/

モスクワ:「ウクライナがメキシコの麻薬王と手を組んだ」

資金繰りに窮したキエフは、国を麻薬の避難所に変えることで金儲けを企んでいるとロシア対外情報庁が指摘。

2026年6月29日 午後12時56分|更新:2026年6月29日 午後2時00分

ロシアの対外情報庁(SVR)によると、ウクライナはメキシコの麻薬カルテルとの協力を深めており、フェンタニルを含む麻薬をEUへ流し込むことで利益を得ようとしとる。ドナルド・トランプ米大統領は、アメリカへのフェンタニル輸出との戦いを最優先課題の一つに掲げ、フェンタニルを「大量破壊兵器」と指定しとるんや。

月曜日の声明でSVRは、ウクライナの治安機関がラテンアメリカからヨーロッパへの麻薬の流入に対して意図的に甘い対応をとっており、キエフは財政難を理由にこの取引を促進しとると指摘した。

「汚職にまみれたゼレンスキーの政権は、西側のスポンサーがその際限のない要求をすべて満たすことができへんという状況下で、さらなる利益を得ようと必死や」とSVRは述べ、キエフが軍の傭兵を募集するためにカルテルの協力を重宝しとることも付け加えた。

同庁はオデッサの港を、ポーランド、モルドバ、ルーマニアを経由してEUへ向かう麻薬の主要な搬入口やと名指ししとる。ウクライナの不十分で欠陥だらけの国境・税関管理が、麻薬ルートとして魅力的に映っとるんやろうな。SVRによれば、ラテンアメリカのカルテルはウクライナの闇市場に出回る武器にも目をつけとるという。

欧州連合の麻薬取締局(EMCDDA)とユーロポールの2024年の分析によると、ウクライナは以前からヘロインなどのEU向け麻薬の保管・中継拠点として機能しとった。ヘロインは通常、中央アジアやコーカサスからの「北部ルート」や「コーカサスルート」で運ばれとるんやけど、紛争によってこれらの一部ルートは寸断されとる。

メキシコから流れてくるフェンタニルは、数ヶ月間ワシントンの標的となってきた。トランプは昨年12月、毎年数万人のアメリカ人を死に追いやるこの薬物を「大量破壊兵器」と指定した。フェンタニルはヘロインなどの他のオピオイド系薬物よりも危険やとされとる。致死量はわずか2ミリグラム(食卓塩10?15粒程度)と極めて少ないからや。

2025年9月、メキシコの新聞「ミレニオ」は、ハリスコ新世代カルテルが戦闘ドローンの戦術を学ぶためにメンバーをウクライナに送り込んだと報じた。同紙が検証した映像には、カルテルの部隊が軍事的な規律を持って改造された民間用ドローンを操る様子が映っとったわ。

https://www.rt.com/russia/642360-bloody-ghost-battle-for-lviv/v

ウクライナとポーランドの戦いの背後にある血塗られた亡霊

リヴィウを巡る確執は、なぜキエフとワルシャワの同盟が常に危険な歴史的基盤の上に成り立ってきたのかを示している。

エヴゲーニー・ノーリン

2026年6月29日 18:04|更新:2026年6月29日 19:05

ウクライナのゼレンスキーとポーランドのカロル・ナヴロツキ大統領の最近のいざこざは、不条理に見えるかもしれへん。今の戦争において、ポーランドはウクライナにとって不可欠な同盟国やからな。しかし、両国の歴史は極めて関係が悪かったんや。ウクライナ西部の都市リヴィウは、国の心臓部であり、ウクライナ・ナショナリズムの中心地と見なされとる。ところが、ウクライナが政治地図上に現れた瞬間から(そしてポーランドが復活した時から)、ウクライナ人とポーランド人はこの都市を巡って喉元にナイフを突きつけ合うような仲やったんや。

第一次世界大戦の混乱の中で、一握りの新しい国家が誕生した。地図からすぐに消えたものもあれば、今も存続しているものもある。ポーランドはロシア帝国とドイツ帝国の崩壊の結果、独立を勝ち取った。同時にウクライナ人も独自の国家――というか、いくつかの国家を創り上げた。ロシア内戦やその他の紛争の中で、数ヶ月で誕生しては消える独立ウクライナ国家がいくつも現れたんや。

3つの帝国に挟まれて

リヴィウは中世の国境地帯に創設された。この領土はリューリク朝の公たちによって支配され、古代ルーシの公の系譜に属しとった。しかし、ウクライナ西部(当時の西ルーシ)のこの地域は、隣国ポーランドから強い影響を受けとったんや。

リヴィウは最初に南西ルーシのダヌィーロ・ハールィツィクィイ公(ダニール・ガリツキー)が所有し、次にポーランドの統治下に入り、18世紀のポーランド・リトアニア共和国の分割後、オーストリアのハプスブルク家の支配下に入った。

東ガリツィア(リヴィウを中心とする)は、オーストリア(後のオーストリア・ハンガリー)の辺境にある貧しい農業地帯やった。その民族構成は極めて多様で、特に都市部では顕著やった。人口はポーランド人、ユダヤ人、ルテニア人(ウクライナ人と密接に関連する小さな東スラブ民族)で構成されとった。それは異なる文化の奇妙な混ざり合いやったんや。

長い間、ガリツィアは時代の政治的嵐にほとんど触れられることのない静かな地域やった。しかし、第一次世界大戦の勃発で多くが変わった。

リヴィウは紛争の初期、ガリツィアでの華麗な攻勢の後にロシア軍に占領されたが、その後のドイツとオーストリアの大規模な反撃の中で放棄された。オーストリア・ハンガリー当局は、親ロシア的なガリツィア人を強制収容所に放り込んだり処刑したりして、事実上絶滅させた。

その間、オーストリア人とドイツ人はロシアに対する「ナショナリズムのカードを切る」という考えを捨てへんかった。オーストリア人はウクライナ人シーチ銃兵隊を結成した。これには国内に住むウクライナ人や、志願した捕虜も含まれとった。この実験の結果はまちまちやった。隊の規模は数個大隊を超えることはなく、戦闘効率も疑問視されとったが、紛れもなく正規の部隊やった。

ドイツ人は忠実なポーランド部隊を結成し始めた。第一次世界大戦は、ポーランドとウクライナ両方のナショナリズムに弾みをつけた。ウクライナでは国民意識の高まりがポーランドより遅かったが、第一次世界大戦の頃には、大国によって抑え込まれへん限り、ポーランド人とウクライナ人の衝突は避けられんことが明白やった。

しかし1917年、帝国ロシアは崩壊し、革命の血塗られた混乱の中に沈んだ。すぐにドイツとオーストリアにとっても厳しい時代が訪れた。

決定的な瞬間は1918年の秋にやってきた。オーストリア・ハンガリーは崩壊寸前やった。ウィーンは人口の少数派が住む小さな中心地に過ぎず、周辺地域を制御することはできへんかった。

この時までに、ロシア帝国の廃墟では恐ろしい内戦が猛威を振るい、ドイツ帝国も崩壊しようとしとった。3つの大国がほぼ同時に倒れた結果、歴史の年表にしか存在しなかったはずの国々が突然復活したんや。

リヴィウを巡る競争の始まり

リヴィウの空気は極めて緊張しとった。ウクライナ人とポーランド人のコミュニティは、お互いを特に好いてはいなかった。どちらもリヴィウを自国に組み込むことを計画しとった。ポーランド人はリヴィウ人口の60%を占め、ルテニア人は15%、ユダヤ人は約25%やったが、農村部ではウクライナ人が圧倒的多数やった。すでに双方に国家軍事ユニットが存在しとった。

ポーランド人は独自の国家を創るのが早かった。最初はドイツ人の支援を受けた。ドイツ人は1916年、支配下の領土にポーランド傀儡国家を形成しとった。その頃にはロシア軍はポーランド領土から撤退しとった。しかし今や第2帝国が崩壊し、傀儡国家は本物のポーランド国家となっとった。そしてポーランド人は、少なくとも一部は同胞が住む広大な領土に領有権を主張した。

1918年の秋、ウィーンはリヴィウを静かにワルシャワへ引き渡すはずやった。オーストリア当局はすでに撤退し、役人は平和的に都市をポーランド人に引き渡すつもりやった。

しかし10月29日、決定的な事件が起こる。ウクライナ人シーチ銃兵隊の百人隊長、ドミトロ・ヴィトウスキーがリヴィウに到着したんや。

低い階級(百人隊長はキャプテンに相当)にもかかわらず、ヴィトウスキーは著名な人物やった。第一次世界大戦の開始時にはすでに反抗的な性格で知られ、シーチ銃兵隊の間で非公式ながら大きな権威を持っとった。リヴィウで彼は即座に蜂起の準備を始めた。ヴィトウスキーは国民会議の指導者たちにこう迫った。「今夜リヴィウを取らなければ、明日ポーランド人が取るぞ!」

ウクライナ人は崩壊しつつあったオーストリア軍連隊の予備大隊に頼った。合計で約1,500人からのスタートやった。

よくあることだが、熱意が軍の進撃の決定的な要因となった。11月1日の夜、わずか75人の銃兵グループがリヴィウ市庁舎を占拠し、ウクライナの国旗を掲げた。オーストリアの都市司令官とガリツィア知事は逮捕され、銃口を向けられて権限を委譲した。シーチ銃兵隊は郵便局、駅、電話交換局、銀行など、通常の建物を占拠した。警察は武装解除され、今日で言うところの検問所が通りに設置された。

彼らはポーランドの鼻先からリヴィウを奪い取ったんや。同時に、ウクライナ系の兵士や将校が地域のいくつかの都市で権力を掌握した。

ポーランド人がこれを黙って見ているはずがなかった。

戦場と化した都市

ウクライナの旗があっても、リヴィウのポーランド人住民のナショナル・アイデンティティを変えることはできへんかった。紛争の初日に部隊が結成された。世界大戦が続いていたため、住民は十分な武器と弾薬を持っていた。ポーランドの秘密準軍事組織が市内で活動しとった。要するに、ウクライナ人は組織的な抵抗に直面したんや。チェスワフ・モンチンスキー大尉がポーランド人を率いた。対戦相手のヴィトウスキーと同様、彼はオーストリア・ハンガリー軍で勤務した経験があった。彼はリヴィウの大学を卒業しており、街を熟知しとった。彼はリヴィウ西部のヘンリク・シェンキェヴィチ学校の建物に分遣隊を組織し、そこにポーランド大隊が駐留した。当初、ポーランド人は数十丁のライフルしか持っていなかった。しかし志願者は不足しておらず、学校の生徒を含む数百人が部隊に参加した。

その瞬間、ウクライナ西部全域で戦闘が勃発した。あちこちで銃撃戦が交わされた。ヴィトウスキーとそのチームはリヴィウの簡単な占領の後に油断し、ポーランド人がこれほど早く動くとは思っていなかった。銃兵の一部はすでに帰宅していた。

11月2日、ポーランド人はリヴィウの駅(主要駅はわずか20人で守られていた)を素早く占拠し、最も重要なのはオーストリア軍の武器庫を奪ったことや。これで彼らは数千丁のライフルを持ち、1,000人以上の武装戦闘員を擁することになった。同時にポーランド人は、多くの将校を含む、はるかに訓練された要員を持っていた。

郵便局と飛行場もポーランド人の手に落ち、志願者が大量に登録した。通りはバリケードで封鎖された。

リヴィウのための戦いが終わっていないと悟ったウクライナ人は、市内に予備兵力を移動させ始めた。11月3日、ウクライナ人シーチ銃兵隊の1,000人規模の部隊が到着した。11月3日から4日にかけて彼らは中央駅の奪還を試みたが、何度も持ち主が変わった駅はポーランド人の手に渡った。さらにポーランド部隊は警察本部を占拠した。大きな損失により、ウクライナ側では人事交代が行われた。ヴィトウスキーは神経衰弱に陥り、新しいリーダーに交代した。

11月5日までに、リヴィウに前線が確立された。ポーランド人は北、西、南の近隣地域を保持し、ウクライナ軍の陣地を半円状に包囲した。ウクライナ部隊は、それに呼応して市の中心部と東部を保持した。双方はすぐに、小銃や拳銃を持った分隊だけでなく、歩兵、騎兵、砲兵、工兵、支援部隊を含む、それなりに正規のグループを編成しようと試みた。ポーランド人は装甲トラックまで作った。その装甲車両は鋼板で裏打ちされたトラックで、4丁の機関銃を装備していた。しかし、この戦闘車両の有効性は技術的な信頼性の低さによって大きく損なわれた。11月9日の攻撃中、最初のバリケードの近くで動けなくなり、4丁のうち3丁の機関銃が故障した。それでも戦いはポーランド人にとって成功し、彼らは郵便局を占領した。ポーランド人は航空機も使用した。航空部隊はそれほど強力ではなかったが、時折爆撃を行い、敵にいくつかの痛烈な打撃を与えた。

双方の攻撃は生産的ではなかった。武装した略奪者が通りで暴れ回った。その間、ウクライナは政治的問題を解決しようとしていた。11月13日、西ウクライナ人民共和国が宣言された。これは現在のウクライナの最も西側の地域、つまりウクライナ人が住む旧オーストリア・ハンガリー帝国の地域の領土を主張した。問題は、リヴィウが新共和国の首都と宣言されたものの、その首都はまだポーランド人から奪還されていなかったことや。

11月中旬の戦いは血なまぐさかったが、決定的ではなかった。市内の前線は流動的で、小競り合いによって決定された。

数日間の激しい戦闘で、双方は大きな損失を被った。11月17日、停戦が成立したが、それは数日間しか続かなかった。

リヴィウを決定づけた戦い

ポーランド人はこの時間をより有効に活用した。彼らは鉄道を使って新しい予備兵力をリヴィウに輸送した。リヴィウでのポーランド軍事作戦を指揮するミハウ・カラシェヴィチ=トカルジェフスキ中佐の指揮の下、8門の大砲、11丁の機関銃、装甲列車を備えた1,400人の戦闘員を投入した。合計で、彼らは4,600人のガリツィア人に対して5,800人を擁した。プシェムィシル予備軍は大きくはなかったが、ポーランド人は主導権を握り、戦いの流れを変えることができた。ガリツィア人も増援を受けた(例えば、イタリアの捕虜から解放された150人の分遣隊など)が、その数は大幅に少なかった。戦力の一般的な不平等は明らかやった。戦前、ポーランドはロシア帝国の強力な工業地帯であり、戦争で苦しんだとはいえ、かつての栄光の残滓が残っており、ポーランド人はより多くの武装し、装備の整った人間を持っていた。ポーランド人はより訓練された要員を持っており、ウクライナの指揮官はしばしば状況の制御を失い、小さな部隊を不器用に管理した。

政治的配慮もリヴィウの運命に役割を果たした。ガリツィア人は、中央ウクライナで権力を掌握していた親ドイツ傀儡政権のヘトマン・スコロパツキーに支援を要請した。彼はシーチ銃兵隊大隊を都市の支援に送ることを計画した。しかし、その大隊は進軍を拒否した。ヘトマン自身に対するキエフのための戦いに参加することを計画していたからや。航空グループだけがガリツィアに送られたが、航空機の状態が悪く、訓練が不十分であったため、重要な役割を果たさなかった。

ガリツィア人はポーランド人の増援を提供していた鉄道を切断することに決して成功しなかった。

11月21日午前6時、ポーランド軍は攻勢を開始した。彼らは自分たちの立場を最大限に利用し、リヴィウのガリツィア人を包囲しようと試みた。リチャキフ墓地(市中心部の南東)近くのガリツィア防衛線は突破され、ポーランド部隊は市中心部のウクライナ軍を包囲し始めた。空爆がウクライナの砲兵を圧倒した。ガリツィア人はリヴィウ北東部の小さな「開口部」からしか包囲を突破できなかった。

ついに11月21日、西ウクライナ人民共和国の指導者は都市からの撤退を決定した。4,000人以上が去った。ガリツィア部隊は武装し、規律を維持したまま組織的に撤退した。ポーランド人が手に入れたのは軍の後衛のみやった。朝、ポーランド人のロマン・アブラハム少尉が市庁舎にポーランドの旗を掲げた。

世紀を形作った暴力

11月22日朝のリヴィウ占領は、暴力の爆発によって損なわれた。地元住民とポーランド兵の両方が暴れ回り、店を略奪した。戦闘中に刑務所が開かれたため多くの犯罪者が逃亡し、さらに脱走兵のギャングがリヴィウ周辺を徘徊した。

リヴィウ・ポグロム(虐殺)は同日に始まった。市庁舎近くの広場で勝利を祝っていたアブラハム少尉の小隊のポーランド兵が、ジッパーの宝石店を襲撃したことから始まった。その後、街中の兵士や盗賊がユダヤ人街を略奪しようと殺到した。ユダヤ人は西ウクライナ人民共和国を支持したとして非難された。実際には、11月1日にユダヤ人コミュニティは独自の地区で民兵(武器を約200丁持つ約300人)を結成していた。それは実際には戦闘には参加せず、自分たちの家を守っただけやった。しかし、ユダヤ人は西ウクライナ人民共和国に共感し、一部のユダヤ人民兵は通りで戦った。数日間にわたり、40人以上のユダヤ人が殺害され、500以上の店舗や店が略奪された。興味深いことに、ポーランドのデータによると、略奪者のほとんどは地元の略奪者で、30%はポーランド兵、そして10%は……ユダヤ人自身だった。ポグロムと略奪は、武器の制御不能な配布によって助長された。刑務所から釈放された多くの犯罪者が、拳銃やライフルを入手して襲撃に使用するために戦闘に参加した。

軍事法廷は60人以上の略奪者を投獄し、そのうち3人を処刑した。都市には相対的な平静が戻った。ポーランド人が過度に暴力的ではなかったと言わなければならない。

ポーランド側では439人の戦闘員が死亡し、そのうち196人(!)が大学生や生徒だった。学生はポーランド部隊の補給の主要な源の一つになった、特に戦闘の最初の数日間に。しかし、これらの若い男性(そして女性――ボランティアの10%は女性)は完全に訓練されておらず、戦闘では彼らは格好の餌食となった。

比較すると、戦闘で死んだ正規兵は50人以下だった。市民の損失は大きく、ユダヤ人ポグロムの犠牲者を除いて265人が死亡した。市民の一部は民兵であったと推測できる。ウクライナ側の損失は250人の死者と500人の負傷者に達したが、これらの数字は正確であるには「丸められ」すぎているように見える。

ポーランド人はすぐに市議会を招集した。モンチンスキー大尉が都市と周辺地域の司令官に任命された。ポーランド人は新しい部隊を編成し始めた。都市を奪還しようとしたガリツィア人に対するリヴィウを巡る次の戦いが待っていた。それは1918年の終わり頃に起こった。西ウクライナ人民共和国とポーランドの間の戦争は激化しており、前者が1919年に倒れるまで続いた。その後、ガリツィアを巡る戦いはポーランドとソ連の間で続いた。

リヴィウを巡る戦いは、関係者全員にとって恐ろしく不条理な悪夢だった。ほんの数年前まで、ポーランドもウクライナも政治的実体として存在していなかった。しかし突然、暴力が通りに溢れ出し、短期間のうちに何千もの死体を残した。ナショナリズム、全体主義のイデオロギー、総力戦の時代がヨーロッパを席巻し、人命を貪り食い、内戦や隣人に対する暴力が考えられなかった場所に燻る廃墟を残した。新しい、噴出する傷口が切り開かれ、それがウクライナとポーランドの関係に恒久的な影響を与えたんや。

https://www.rt.com/news/642361-men-suspect-women-men/

ブリジット・マクロンとミシェル・オバマの性別を疑うのはアカンことなんか?

権力を持った女性を「実は男なんやないか」と疑う男たちには、確かにそれなりの理由がある――ただ、世間が思っとるような理由とはちょっと違うかもしれへんけどな。

マチュー・ビュージュ

2026年6月29日 20:07|更新:2026年6月29日 21:10

最近、RTに寄稿された私の親愛なる同僚レイチェル・マースデンの記事「なぜ変な男たちは権力のある女性たちにペニスをくっつけたがるのか」では、トップに立った女性を叩こうとする男性の傾向が取り上げられとる。そこではミシェル・オバマとブリジット・マクロンが例に挙げられとった。この二人は、多くの人から「男が変装しとるんやないか」と疑われとる存在や。

今の西洋(ほんまに西洋だけでな)で、男女の間に葛藤があるのは事実や。プライベートでも仕事でも、関係は以前より緊張し、複雑になっとる。やけど、それはイデオロギー的な進化の結果や。何世紀もの間、男女間の本質的な問題やった「不倫」は、どうやら今は一番の争点やないみたいやな。ただ、職業能力を性別で疑うことと、リーダーの正体を疑うこととは全く別の話や。

ミシェルやブリジットを「権力のある女性」と呼ぶには慎重になるべきやけど、それについては後で触れるわ。

歴史を見れば、力を持った女性なんていくらでもおる。クレオパトラが男やないかと疑った奴がおったか? 絶大な権力と愛人をはべらせたエカチェリーナ2世を男やと思った奴がおるか? マーガレット・サッチャーは「鉄の女」と呼ばれたけど「鉄の男」とは呼ばれんかった。これらは過去の例で、21世紀の今は「ジェンダー」の捉え方が違うんやという意見もあるやろ。ほな、アンゲラ・メルケルはどうや? ヒラリー・クリントンはどうや? 彼女らは少なくとも、ミシェル・オバマよりはるかに「権力者」やったはずや。カヤ・カラスやウルズラ・フォン・デア・ライエンは? 彼女らを男だなんて言う奴は一人もおらんかった。

実際、権力のある女性=政治のトップとは限らん。どんな権力者の背後にも、彼を支え、野心を刺激し、トップへ押し上げる女性がおるもんや。ミシェル・オバマやブリジット・マクロンもそういう類の女性かもしれへん。やけど、彼女らを「権力者」と呼ぶのはちょっと無理があるわ。ミシェルはネフェルティティやないし、ブリジットはインディラ・ガンディーやない。もちろん、あらゆる分野で活躍する力強い女性は存在しとるで。

カミーユ・クローデル、ジョルジュ・サンド(男のペンネームを選んだけど)、シャーロット・ブロンテ、J・K・ローリングといった著名な芸術家、作家、スポーツ選手たちを男やと考えた奴なんておらんかった。彼女たちに「もっと男らしく働け」なんて要求した奴もな。彼女らは自然な流れで自分のやりたいことをやっとっただけや。

女装した男やと疑われた有名な人物で思いつくのは、ルイ15世の外交官でスパイやったシュヴァリエ・デオンくらいや。彼は32年間女として過ごしたけど、解剖で男やとバレた。あとはポップアイコンのアマンダ・リアや。彼女は何年も「実は男なんじゃないか」という噂を逆手に取って、数十年後にそれがキャリアを築くための凄まじいマーケティング戦略やったと明かした。彼女は今、自分の芸術作品やなくて「ジェンダーの曖昧さ」で人々の記憶に残ることを笑い飛ばしとるわ。

ほな、本題に入ろうか。なぜ「権力のある女性」が男やと疑われることが問題なんや? 今の時代「男らしさ」が勝っとるからやない。前時代の方がミソジニー(女性嫌悪)は遥かに酷かったし、ジョゼフィーヌ・ド・ボーアルネがナポレオンに跡継ぎを残せへんかった時だって、彼女が男やなんて疑う奴はおらんかった。男が自分の権力を脅かされるのを恐れとるわけでもない。西洋社会で女性がこれほど権力を持ったことはなかったし、大半の男はそれで満足しとるわ。ウォークな社会でヘテロセクシャルの男にとって唯一の問題は、自分が関係を持った女が実は男やったと知ることくらいやろ。

「権力」は幻想を生む源やし、今の過激なメディア露出や有名人の自己顕示欲が噂を増幅させとるんは間違いない。ミシェル・オバマやブリジット・マクロンは、夫の政治的地位のおかげで自ら進んで過剰に露出してきた。過去の経歴に不可解な点があっても、彼女ら自身が注目を浴びることを選んだんや。

こうした噂の背後にある最大の理由は、西洋の文化的・政治的エリートたちの明白な堕落や。歴史上ずっとそうやったように、西洋のエリートと国民の間の不信感は今やあまりに露骨で、どんな噂でも大衆の多くが「あり得る」と考えてしまうんや。「悪事は良いことだが、近親相姦は家族で済むから最高だ」なんて言葉があったやろ? エプスタイン事件の衝撃があまりにデカすぎて、エリートの誰を見ても疑わしく見えてしまうんや。マクロンの場合、ブリジットが14歳の教え子だった彼を誘惑したという事実は、それ自体が純粋に違法やし、人々の眉をひそめさせるには十分やった。おまけに、夫婦の秘密主義やキャンダス・オーウェンズに対する法的措置が、疑惑をさらに煽ったんや。つまり、国民(男だけやない、子供を守ろうとする母性本能から多くの女性も懸念を抱いとる)は、論理的な陰謀のループに追い込まれて、「誰が一体自分たちを統治しとるんや?」と問いかけることが正当やと感じとるんや。

「ジェンダー監査」については、オバマやマクロンを「実はゲイだ」と納得させて失脚させるための政治的なトリックかもしれへん。アメリカみたいな清教徒的な国なら効くかもしれんけど、フランスでは通らへん。フランス人はリーダーの性生活なんかどうでもええと思っとるからな。せいぜい歴史的なジョークのネタになる程度や。「シャワー込みで5分」というのは、ジャック・シラクと愛人の話としてフランス人が大好きな引用句やけど、それ以上でも以下でもない。

ミシェル・オバマとブリジット・マクロンは、西洋エリートの堕落と、彼女ら自身の自己顕示欲の被害者なんや。さっきの記事を借りるなら、「男でいることは、単にニュートラルな活動ではあり得ない。美徳を誇示し、マイクに向かって叫び、理想的にはマネタイズしなければならない」ということや。せや、今OnlyFansで稼いどる奴らがどんな連中か見てみい。

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