2015年5月30日土曜日

サウジとイエメン

中国の実質経済成長率が1.2%かなんかと囁かれ、世界規模で原油需要が低迷。在庫は積み上がるばかりで、そのなか増産に踏み切ったサウジの目的は、第1にアメリカのシェールオイル産業の息の根をとめること、第2にイランとロシアを財政的に痛めつけることにあると言われています。
アメリカのシェールオイル産業の多くはジャンクボンドにレバレッジをかけて資金調達をしていて、そういう会社は採算分岐点となる原油価格がバレルあたり100ドル超といわれます。だから原油価格が昨今のように60ドルを切るくらいだと、損が増えて財務状態は幾何級数的に悪くなります。アメリカのリグ(組み上げポンプ)カウントは4月ごろまで減少を続け、5月にはいっていったん落ち着いたものの、先週からまた下がりはじめました。
第2にロシアとかイランですが、原油価格がだいたいどれくらいだったら財政赤字を出さずにすむのかという調査があります。
これによると、サウジの分岐点は90ドル台なので、いまのレベルだとやはり損をこくことになります。しかしたくさん生産すればコストが下がるということもあり、サウジ王のところには国営石油会社アラムコから時々刻々と最新情報が伝えられているに違いありません。1〜2万人いるという王子のなかから選ばれた王ですから、パキスタンのカラチの大学で学位を買うようなアホではなく、きっと西欧のりっぱな大学で優秀な成績を収めた秀才に違いありません。この価格ならいつまで勝負できる、というのを打倒すべき敵のデータを参照しつつ参謀のつくったチャートを睨んでいることでしょう。

ここまでは管理の範囲内。

しかしサウジ家は、「誰も欲しがらない」といわれていたイエメン相手に戦争をはじめました。理由は簡単、角地を占めた貧乏人が自分らのでっかい×んたまを握っているのが許せなかったからでしょう。

しかし戦争というのは勝つときもあれば負けるときもあり、変数としてはブレが大きすぎます。
これでサウジの運命は管理の範囲外。
企業も王家も潰すのはやっぱり3代めなのでしょうか?

PDMのおはなし その4 ナレーティブサマリーの危険性

技術者はだいたい無口である。なかには饒舌な人もいるけれど、自分の専門になると無口になる。頭の中には3次元の動きとか、段取りとか、閾値とかフィッシュボーンチャートとかいっぱい詰まっていて、それを素人に説明しろといわれたら困ってしまう。だから無口になる。

我が輩の頭の横にはいつも、タイボスと岩澤工場長と現場ガテン系の石井さんが住みついていて、なにか課題を出したら頭のまわりで3人があーでもないこーでもないと議論をはじめてくれる。タイボスは特殊ネジのタイ工場をマイナスから作り上げた人なので、技術と経営の観点から。岩澤工場長はコスト、段取り、人繰り、フィッシュボーンチャートの観点から。5階から転落しても大丈夫という不死身の石井さんは、切削加工でも溶接でも圧造でもなんとかしてしまうという現場の観点から。
営業が「あの市場のこんなけのシェアを取られました・・。」といったとき、社長が「取り返すぞ!」と会議で宣言したとたん、3人が議論をはじめる。原材料はどこからいくらで調達する、おーい鉄屋さんに問い合わせてくれねーか、加工機械にはアタッチメントが必要、それはドイツから入れたらいくら、いや台湾製ならもっと安い、生産体制は3人1チームで三交代、アブラはオルガニックに変えるんじゃなかったのか、それどこまで進んでるんだオイ?ドリルの寿命ってどれくらいだっけ?工具屋に在庫あるのかヨぉ、3000個削ってから精度どれくらい落ちるかグラフにしてくれよ、パッケージの強度の話はどうなったのさ、そんでもって1個あたりのコストは・・・。

PDMはナレーティブサマリーから始まります。これを営業が書くと、まず失敗します。コストを度外視して販売計画を書くから。経営資源をどれだけこのプロジェクトに振り分けるか、それをいつからいつまで続けるかを判断できるのは社長だけ。だからナレーティブサマリーを書くのは、社長が営業部長だけじゃなくて3人を呼んで議論させて、コストが割り出され、チャートを睨みながら社長が総合的に経営判断して書くべきものです。

戦争なら、ナレーティブサマリーを書くのは文官(外交官)でしょうか。武官は理系なのでロジスティックスの積算。でもここで文官が武官を呼んであれこれ議論しなければ、まともなPDMはできないだろうし、戦争に負けてしまいます。PDMの一番の問題は、一番後に書くべきナレーティブサマリーを、現場を知らない秀才タイプの文官があっさりと書いてしまうことだと思います。

PDMのおはなし その3 因果関係の検証

因果関係の検証といえは、これはなにもPDMに限った話ではございません。製造工場など、ボトルネックはつぎつぎと移動する、とかのエリヤフ・ゴールドラット博士ものたまわっておる。(ちなみに彼の著作はたくさん売れすぎていまやブックオフでタダ同然で買えるし、英語版中古も豊富である。新品は買わないほうがいいというビジネス本の典型的な運命を辿っている。)ま、それくらいいつも考えていないといけない問題なのだが、PCM手法ではこれが素人集団にブン投げられていて、民主主義よろしく「プロセスを踏んだらそれが真理」みたいに考える人も多いらしいのだが、そんなわけはない。

というところを実例をあげつつ考えてみようと思う。
P国の自動車産業を振興する、というプロジェクト。そもそものロジックはこうである。P国の自動車生産量は年間13.5万台である。なぜかというと品質が悪いから。品質が悪いのは技術が不足しているからである。だから技術をもった専門家を派遣して指導してもらおう。車が売れない>品質が悪い>技術が低い、ここまでボトルネックを追い込んだのだから<技術を入れたらええやん、という結論でPDMが描かれた。

自動車部品の製造工場を見に行ったとき、我が輩が敬愛する金型の親方、林部師匠が現場のプレス機械の前でこうつぶやいた。
「プレス機の精度を測ってみたらさ、JIS規格2級外なんだよな。」
我が輩は林部師匠に尋ねていわく、「中古でいくらくらいですかね?」林部師匠は、
「250トンで1500万円、450トンならン千万円かな?」と即答したもんだ。
我が輩はかつて働いていた特殊ねじ業界のコストブレークダウンを必死に思い出しつつ、重量がこれくらいの製品なら原材料はどれくらい、儲けでプレス機導入の設備投資を5年で原価償却するのに必要な生産量はどれくらい・・・と追い込んだら、年産ン万個くらいではどんな経営者でも設備投資はためらうでしょう、ということになった。そしてそれをクルマづくりの中川師匠に言ったところ、「経営者は見込みで動くもんですよ。政府が方針をブチ上げたら期待値が増大します。」

つまり本当のボトルネックは、技術レベルが低いことじゃなくて、生産個数が少なすぎること、それに対して政府が無策なことだった。まともなプレス機を導入して減価償却できる生産個数が確保できたら、自由競争社会の経営者たるもの黙っていても設備投資をして、そのうえで技術指導したらまともなパーツができる。逆にJIS規格2級外のプレス機を使っている限り、どんな優秀な専門家が来て技術指導してもパーツの精度は上がらない。

というわけ、PDMには前提条件が付け加えられた。「P国政府が新車購買層に対する優遇税制を実施し、新車生産台数が13.5万台程度となること。」つまりプロジェクトの重点は現場への技術移転ではなくて、政策アドバイスに移りました。購買刺激政策が必要条件で、技術移転は十分条件だったということです。

PDMでは因果関係が一方通行で、それを逆にたどる枠組みが設定されていない。因果関係を検証することを担当者に強いる仕組みがない。だから担当者は現場に足を運ばなければならないし、専門家と現場であーだこーだと議論しなければならない。「ほんとうにそうかな?」という思いつき、現場に足を運ぶマメさ、専門家へのリスペクトと、そのつぶやきを憶えておくセンス。これはロボットにとって代わられない、人間しかできない考える作業です。

PDMのおはなし その2 必要条件と十分条件

マトリックスというのは、担当者とか関係者に考えることを強いるツールだと我が輩は考えています。雑務で忙しい日々、ついつい考えることをサボり見逃してしまうような細部に悪魔も神も潜んでいる、というわけです。

さてひとつ前の投稿でPDMの欠点にふたつあると書きました。
1. ほんとうにそれでいいのかという検証プロセスが含まれていない。
2. リソースのインプットが無制限になりがち。

ここではリソース(事業運営資源)のインプット(投入)について考えます。
プロジェクトに投入できる資源(予算、人員、資機材、時間)は限られているので、目的を達成するためになにが最低限必要なのか精査することを担当者は求められます。つまり必要条件と十分条件をたて分けて考える必要があります。PDMというマトリックスには、それをたてわける検証プロセスがありません。プロセスがないということは、なにが必要条件でなにが十分条件なのか担当者に考えることを強いる枠組みがないということです。

たとえばソンミ村の例では、プロジェクト目標を達成するためにベトコンを見つけて殺すことが必要=必要条件だったと考えられます。ウィキペディアによると掃討作戦決行の前夜、C中隊指揮官のアーネスト・メディナ大尉が主張し決定された既定事項、つまり村民とベトコンを判別するのが面倒だったので、ぜんぶ殺してしまえばいい=十分条件が採択されたわけです。その結果、必要でなかったはずの資源まで投入され、そしてメディアが騒いだのでこれをきっかけに母国で反戦運動が活発化するという(プロジェクトにとってはマイナスの、おほぼコンティンジェンシーといっていいレベルn)波及効果を生んでしまいました。必要条件と十分条件を精査することがいかに大事か、という好例です。

PDMを見たとき、我が輩はそれをBSC(バランスト・スコア・カード)に転記するという作業をルーティーンにしています。BSCは財務、顧客、内部プロセス、学びと成長という4つの観点からプロジェクト戦略を検証するツールですが、PDMに書かれてある要素をそこに転記する作業を通じて、なにが必要条件でなにが十分条件なのかを考えさせられることになります。そしてPDMを書いた担当者にあれこれ尋ねつつ、なぜPDMがそうなったのかを検証します。

ベトナム戦争でアメリカ軍は膨大なリソースを投入しながら、ついに勝つことができず、しかし波及効果としてモンサントという化学企業をグローバルに環境と農業を破壊するお化け企業に育ててしまいました。リソース投入量を制限する枠組みをもたないPDM、というのは納入業者にとってとても美味しいマトリックスです。

PDMのおはなし その1

PDM(Project Design Matrx)というのは、PCMといわれる手法で使われるマトリックス。詳細はこちら:
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/edu/kyouzai/handbook/html/h20104_2.html
これはドイツの援助機関gizの使っているZOPP(Zielorientierte Projektplanung)のほぼパクリです。
PDMの問題は、我が輩が日頃考えているだけでもふたつあります。
1. PCMのプロセスを通過したPDMならホンマに使えるのか?という検証過程がない。
2. プロジェクト目標を達成するため、インプットが無制限になりがち。
てなわけで、PDMはビジネスに使えないマトリックスとなっています。
じゃあPDMは何に使われるのかというと、ひとつは開発学、もうひとつは戦争。
我が輩思うに、「ほぼやることがなくなったマクロ経済学が見つけたニッチ」である開発学より、戦争を例に取ったほうがPDMの使い方(と限界)がわかりやすい。
(例)
上位目標:ベトナム国クワンガイ省を軍事的に制圧する。
プロジェクト目標:ソンミ村のベトコン(ベトナム共産党ゲリラ)を掃討する。

活動:
1. ソンミ村の面積および人口を偵察機で把握する。
2. ゲリラの逃避先となる周辺森林面積と地形を偵察機で把握する。
3. 枯葉剤(オレンジエージェント)を投下して森林を枯らす。
4. ソンミ村を急襲してゲリラを全員殺す。

投入:
1. 偵察機とパイロット(時間レンタル)
2. 枯葉剤?トン(モンサント製品が望ましい)
3. 第20歩兵連隊第1大隊C中隊第1小隊
4. 村民500名 x 住民1人殺傷に必要な弾薬?kg
5. 移動に必要な燃料、行動日程中の食料、携行医薬品

目標達成のための定量的インデックス:
殺した村民数/偵察機で把握された村民人口数
定量把握の手段:
第1小隊による屍体数カウント
・・・。

火山灰>ガスタービンという話

火山灰はこまかいガラスの粉みたいなもので、肺の粘膜に突き刺さるわ、エアクリーナーは目詰まりさせるわ、タービンエンジンのなかにはいったら研磨剤みたいに金属表面がごりごり削られるわ、それは大変らしい。
てな按配で、発電もできなくなって、つまり電車も止まる、水道も止まるらしい。だから箱根山、浅間山など関東の西側の火山が口永良部島みたくパンパカしたら、さっさと常磐線に飛び乗って郡山 〜会津〜新潟あたりまで逃げるか、自動車に乗って途中で防塵マスクとゴーグルと水とエアークリーナを何個か買ってトランクにほうりこんで旅にでるのがいいらしい。

三野正洋「続・日本軍の小失敗の研究」、アメリカ軍、開発学と開発業界のこと

製造と生産管理のことを知る人が書いた戦史。製造と管理から離れたところでも面白い指摘があった。そのひとつは、漢口に駐留していた阿南惟幾中将が管轄下の軍隊を自分のものだと考えていたこと。 日本帝国陸軍は軍閥の集まりだったのか?もうひとつは、戦陣訓(島崎藤村の起草!?)をはじめ作戦方針にいたるまで「そうであってほしい」という希望が述べられた詩で、実質的に何も指示していなかったこと。さらにトラック島の例では、第四艦隊司令長官の小林仁中将とその幕僚が釣りと宴会に明け暮れていたらしいこと。
これは「失敗の本質―日本軍の組織論的研究」 (中公文庫)でも指摘されていることだが、陸軍幼年学校にはじまるエリート選抜方式が、組織の「中の人たち」の馴れ合いを生んだということらしい。「中の人たち」が馴れ合いになること、そして宴会が頻繁に開かれることは、どこの国のどんな組織でも同じ。某商社の若手いわく、送別会を兼ねて60日間連続で飲み会をしたのだとか。うーむ、知力体力人格ともに優れた人材が、組織(日本でもいいんだけど)の明日を考えるのではなく、宴会に明け暮れるのか。「中の人たち」の結束を固めるためというのはわかるけれど、そんなことに体力を費やしていたら、外のふつうの人たちのことはどうでもよくなるんじゃないか。そのひとつの結果が福島原発の爆発と、その後始末のいい加減さなんじゃないか。

さて最近、アメリカの精鋭部隊がウクライナ軍の訓練に派遣されたという話。ウクライナ軍っていうのは、60歳のジジイまで徴兵しちゃうという無茶ぶりどころか、ネオナチを吸収したことでも有名です。それで、アメリカの兵隊さんたちはウクライナ軍の兵隊のレベルの低さに唖然としたらしい。文字が読めない?何をしたらいいか理解できない?っていう。
でもね、中国でも「好鉄不打釘。好人不当兵。」っていうじゃないか。そのレベルがふつう、と考えるとき、かえってアメリカ兵のエリートぶりが気になってしまう。つまり、アメリカ軍の精鋭はそれまで現場を知らなかったんじゃないか、ハイテク兵器の扱いはうまいかもしれないけれど、泥臭い面を見なかったんじゃないか、と。

アメリカは朝鮮戦争以来、戦争に勝っていない。1953年に休戦になっただけで、勝ったわけではない。ベトナム戦争もそう。アフガン戦争も、イラク戦争も。62年のあいだ勝ったことがないということは、勝った記憶、どんなふうに勝ったかを覚えている指揮官はもう92歳から102歳くらいということで、ほぼ生きていない。日本の製造業と同じく、空洞化が生じて久しいんじゃないか。それだけじゃない。軍隊が独占発注者で、応札者が大手に限られた業界、となれば業界全体が人民のためじゃなくて他の方向に突っ走るのは自然のなりゆきで、いわばシステムにつきまとうレベルの問題になります。

さてアメリカさんがベトナム戦争で使って勝てなかったPDM(プロジェクトデザインマトリックス)というチャートをいまだに金科玉条にしている開発学と開発業界。関東学院大学の中泉教授によると、「開発学はマクロ経済でやることがなくなったやつが見つけたニッチ」とばっさり言われてしまうんだけれど、最近では修士号が最低の条件というエリート揃いなのに、日本の中小製造業でも3ヶ月で1サイクル回すPDC(計画・実施・検証)サイクルを2年とか5年とかで1回りさせるのが常態化している。そして業界では国連開発計画でもどこでも、発注者が独占的で応札者が有名大手。おやどこかで聞いたような話ではあーりませんか。

2015年5月23日土曜日

育てた人材の受け皿はつねに「市場の拡大」にブン投げ

さきの投稿のつづき。
木村肥佐生さんが亜細亜大学に職を得た経緯は、我が輩の知るかぎりつぎのとおり偶然が重なったものであって、誰かが受け皿をつくったというものではないようだ。
在日アメリカ大使館で15年勤めた。その間に毎日新聞がスポンサーになったマナスル登山隊のアドバイザーとして講演した。その講演録が本になった。「チベット潜伏10年」(中公文庫)モンゴル語とチベット語に堪能なのが知れたので、亜細亜大学の先生になった。
我が輩の恩師も、おもに原始日本語とアルタイ語関連の論文をあちこちで発表していたので我が母校の先生になったようなのだが、これは戦後の学制改革がきっかけになって、いわゆる「駅弁大学」といわれるくらい大学が急増したことに伴う人材難があってのことで、ラッキーな時代だったのだろう。
木村肥佐生さんが残した英語の本には、「チベット潜伏10年」にあんまり書かれていなかった、帰国した木村さんに外務省がいかに冷たかったかというくだりがあったと思う。戦争に負けた国の外務省としてはそれどころじゃなかったんだろう。大東亜共栄軒を想定してあちこちに人材育成機関をつくりまくっていたことを大親分のアメリカ政府GHQに知られたらマズイという判断があったかもしれないが、もしそうなら木村さんとか西川さんみたいな人ほど、外務省とか関係機関に囲い込んで飯を食わせただろうと思う。結果的に木村さんはアメリカ大使館で15年も勤めるのだから。

じゃあアメリカは受け皿をつくって見捨てないのか。それは時代とともに変わる。

"Saving Private Ryan"という映画がある。これは政治的動機もあってアメリカ政府がライアンという一等兵を助けるために救援部隊を差し向けるというストーリーなのだが、「アメリカ政府はなにがあってもアメリカ兵とアメリカ人を見捨てませんよ絶対」というハリウッドの国策メッセージが込められている。アンチアメリカ運動がさかんになり危険になった国でベイビーを抱いた母親がアメリカのパスポートをかざしながらアメリカ大使館に駆け込んで助けられて涙、なーんてイメージは誰にもどっかでインプラントされているはずだ。運悪く死んだらアーリントン墓地で兵隊が鉄砲をパンパンと打って埋葬。
そんなアメリカがいま、イエメンに取り残されたアメリカ人をアメリカ政府が見捨てた、というのをRTにことさら取り上げられている。記者会見で直毛白皙の(ぷ)サキ報道官が「退避勧告は周知徹底されているはず」と例の冷たい調子でいう。RTの記者が「じゃあいま取り残されているのは好きで居残ったアホばっかりなので死んでくれ、というわけじゃな?」(ぷ)サキ報道官は例のシニカルな調子で、「周知は徹底されている、と申したであろう、ん。」てな感じ。(ぷ)サキさんはアメリカ政府とハリウッドが何十年もかけてつくりあげたイメージを一瞬で砕いてしまいましたとさ。
それはなにもイエメンに始まったことじゃなくて、もう10年もすったもんだやっているアフガンでも同様。イラクでも同様。アフガンなんてアメリカ軍が雇ったアフガン人兵隊に背後から撃ち殺されるというのが続いたこともあって結構なストレス。生きて帰国しても半分くらいがPTSDになるんだっけ?これじゃ誰も兵隊にならないよ。

アフガン戦争で軍にかわってCIAが殺人機能を請け負いはじめた時期に、これはいわゆる人事圧力シンドローム、つまり雇いすぎた人員に仕事をつくるということなんじゃないかと思ったことがある。もしそうだとしたらそれはとても良心的な組織ということにならないか。しかしイェメンに取り残されたアメリカ人、アフガンとかイラク帰還兵の扱いなんか見ていると、兵隊もGMの工場労働者も同じような扱いをされるようになったことがわかる。仕事がなくなったらレイオフ。洋の東西を問わず、官も軍隊も民間も、人材育成の受け皿は「市場拡大に期待」それで思考停止、ということなのか。

菊池由希子さんとか中田考さんみたいなオモロイ人たちの受け皿がない日本の体制

何百年も続く慣習「誘拐婚」って?コーカサスの人々が考える幸せとは
http://business.nikkeibp.co.jp/article/report/20120222/228157/

この記事を読んで、「誘拐婚でも当事者の女性がそれなりに幸せならええじゃないか」という菊池さんの意見に違和感とか異論が続出みたいです。それはそのはず、普通やないどころか、相当けったいでっせこの人。この場合の「普通やないどころか、相当けったい」というのは褒め言葉です。イラキ3バカトリオで有名になった高遠さんとはレベルの違いを感じさせられます。この菊池さん、モスクワ大学で学位とるところまでがんばったのにチェチェン人と関わり合ったためロシア政府に入国禁止を喰らってしまい、詳細はこちら
http://d.hatena.ne.jp/chechen/20100604/1275657815

ま、特技がロシア語しかないのにロシアから出入り禁止と言われたら食っていけませんわ。 でも
http://higashi-nagasaki.com/AzizA/index.html
を見るとハサン中田考さん(あのISISとコネをもっている人。大学の先生だったのに、例の一件でやめちゃったのか、いまはビジネスをやっているらしい)なんかとツルんでそれなりに楽しくやってそうでご同慶の至りです。

いまの日本っていうのは、こういうオモロイ人たちの受け皿がなくなってしまったようです。
このブログの前の投稿に木村肥佐生さんとか西川一三さんのことを書いたけれど、ラマ僧に扮してモンゴルから歩いてヒマラヤ超えてチベットにはいり、敗戦したって聞いたのでそれを確かめにインドまで歩いていって・・・なんて普通の人じゃない。
我が輩の恩師だって、東京外大でモンゴル語をやって、中国で研究者やってたら敗戦になったけど残留して、八路軍がおもしろそうだから会いにいったら拘束されて、中国語とかできたから通訳やってて、でもおもしろくなくなったからハグれてたら国民党軍に拘束されなんたらかんたらで帰国して、我が母校の教授になって、友好訪中団の宴会で火を噴く大道芸をしようとして止められるなんてオモシロすぎる。
でもこの時代の日本には、こういう人材がそれなりに暮らしていける受け皿があったのだ。
我が輩は不肖の弟子だけれど、師匠が生きたオモロイ時代の空気感を若い全身で吸収させてもらい、いまだに世間の通念ではわけのわからん国ばっかりで暮らして働いて楽しんで生きている。そういう立場から見ると、菊池さんとか中田さんは、せっかく日本人に生まれて豚食えて酒飲めるのになんでモスレムになったのかさっぱり理解できないし、友達になりたいとすら思わないけれど、でもけったいなオモロイ人として評価できるし、お国も政治家も親分犬の尻尾をいつかやめたいと思うのであれば、こういう人を受け入れる皿をつくるべきだと思う。

アメリカのピースコープス(平和部隊)は日本の外地での人材育成機関のパクリである。

東亜同文会ができて、南京同文書院がつくられたのが1898年(明治31年)。
上海に東亜同文書院がくつられたのが1901年(明治34年)。
満鉄の創立が1906年なので、それに先んじて現地で人材育成がされていたということになる。
さらに、満蒙研究会が1915年。同年に南洋協会。
満蒙研究会が満蒙文化協会になったのが1920年。同年にハルピン学院設立。
さらに満蒙文化協会が日中文化協会になったのが1926年。時代は昭和。
満州国通信社ができたのが1932年。初代CEOが里見甫。里見甫は東亜同文書院卒業生。
翌年1933年に日満文化協会。同年に日蒙協会。1935年に蒙古善隣協会。
1940年に興亜義塾。木村肥佐生と西川一三はここの卒業生。

日本は 敗戦までの約50年間、上海で、北京で、張家口で、満州で、蒙古で、ベトナムで、上は文化研究から下は作業員スパイレベルまで、軍隊に先んじて若い人たちを現地に放り込んで人材育成をするシステムを営々と作ってきた。

木村肥佐生さんと西川一三さんはラマ僧に変装してモンゴルからチベットに入り、敗戦を知ってインド経由で出頭・送還・帰国してから駐日アメリカ軍GHQに呼び出され、相当長期間尋問された。木村さんは優秀なスパイと認定されたらしく、それから15年間も在日アメリカ大使館に勤めてモンゴル情報を収集することになる。

アメリカの平和部隊という名のジュニアスパイ養成組織がJFKの肝いりでできるのはそのあと1961年のこと。日本の青年海外協力隊ができるのはそのさらにあとになる。だから青年海外協力隊関係者ですら、アメリカ平和部隊に倣って、なんていう人がいるくらいだけれど、どう考えても青年海外協力隊を作った人たちのなかに、あまり表にでなかった人材育成の歴史を知った人がいたに違いないと思う。国家百年の計を考えるほんとうの意味での愛国者が。

西川一三さんは理髪店経営で人生を終えたけれど、木村肥佐生は亜細亜大学の先生になった。我が輩の恩師も年譜によると、

1942(昭和17年)東京外国語学校蒙古語部を卒業。
1944(昭和19年)蒙古連合自治政府調査官となり、張家口にあった蒙古文化研究所に勤務。なお、張家口には西北文 化研究所があり、研究員の甲田和衛氏や蒙疆学院の山崎忠氏とは生涯の友人となる。
1945(昭和 20年)8月 敗戦により張家口から北京に逃れる。学問を続けるため中国残留を決意。
9月 規律整然と噂に聞く八路軍に興味を持ち、解放区を目指して南下。山東省楽陵で八路軍に拘束され、恵民に護送の上収監される。日本軍投降者と共に行動することになり、通訳を依頼される。12月頃 恵民から臨沂へ向けて出発。
1946(昭和 21年)1月 臨沂に滞在する。2月頃 東北方面に向かうことになり、黄海を横断し丹東へ。学問を続ける意志がかないそうもなくなり、八路軍を離れ単独行動をすることになる。
6月頃 遼陽で国民党支配地の監獄に収監される。日本人であることをあかし、植物学者の佐藤潤平氏に助けられる。9月 内地に引き揚げる。

そして、
1975(昭和 50年)4-5月 日中友好の翼・兵庫県各界友好訪中団の一員として、上海→北京→天津を廻る。 宴席で火を噴く大道芸をしようとして、伊藤道治神戸大教授に止められる。

というダイナミックでおもろい人でした。




「西北研究所の思い出」

http://repo.nara-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/AN10086451-19861200-1004.pdf?file_id=1559

「藤枝晃博士談話記録」って。めっちゃおもろい。
いわく、

善隣協会に調査部というのがあったんです。善隣協会というのはそもそもその時分、新京で最初できて、東京に本部があって、つまり関東軍の一歩先に出て行って民間に入り込むという謀略団体ですわな、いまの言葉で言うたら。当時の言葉では国策団体。内蒙古にずーっと軍隊より一歩先に出て行った。勇ましい団体なんです。それである時期に、十年ほどたって、昭和15年に東京と現地とを分けて、東京のほうは財団法人善隣協会、そして現地のほうは蒙古政府の財団法人で、蒙古善隣協会という別の団体にして、東京の協会の束縛を受けないで勝手なことをできる状態にして。
蒙古善隣協会ちゅうのは、日本政府が張家口の大使館を通して全額助成してた。東方文化研究所も大東亜省の全額助成団体・・・云々。
(略)
本部の近くに回民女塾というのがあります。イスラムの女学校、全寮制で。これは是永章子という大分県のオバハンがやってたんや。この人はその前に朝鮮で小学校の先生をしてたんや。
(略)
綏遠に興亜義塾という、中田善水が塾長で、日本の中学でたやつをスカウトしてくるのやね。あんまりできの良くない豪傑、少々のことにこたえんような頑丈なやつばっかり。その第2回か第3回かの卒業生の木村肥佐生いうの、ラマに化けてチベット行って。それからもうひとり西川一三。僕が行った時はそういう若いのが二人潜入してるということを聞いたですがね。その後インド通って帰ってきた。ああいうのが出たんは興亜義塾というものも成功したということなんやろうかな。ひとりのやつは、向こうにはいって住み着いて、いづれ日本軍が来る時それを迎えるようにと言われたて、これ(協会史)見たら書いたるねん。例の小野田少尉、ああいう人のまだ見つからんやつがいっぱいおるのやろな。あちこちに消えたやつが。
(略)

2015年5月22日金曜日

「ほんとうは困ってなんかいないのかもしれない。」

田中淳夫さん「森林からのニッポン再生」
第3章 森から見たムラの素顔 第6節 田舎は「困っていない」
要旨はつぎのとおり。
林業が不振なのは競争力がないからなのだけれど、何十年も改善されていない。
部外者に状況を説明すると、「林業関係者は、ほんとうは困っていないんじゃないか。」と問われてしまった。地域づくりでも同じことを問われたことがある。
補助金の申請をするのも自治体、その補助金は既存事業の継続や拡大に使われるのではなくて、「補助金があるから何かやろうか」という程度のものなので、補助金が打ち切られたら終わってしまう。地域づくりでも起業でも意欲を感じさせないどころか、熱心にすすめる外部者を煙たがるひともいる。
山村はじり貧かもしれないが、いまとのころ生活を続けることはできる。

筆者の田中さんの意見は、「今はそれでいいかもしれないけれど、山村はゆっくりと尊厳死を迎えるような終末をまねくのではないか」という問題意識。

我が輩は筆者の問題意識をここで云々するのではなくて、上にざっと紹介したような文脈は、いわゆる開発業界と開発途上国の関係にぴったりとあてはまるんではなかろうかと思った。

我が輩はいわゆる開発業界では、マレーシア、インドネシア、パキスタンで暮らして仕事をしてきて、そして今はイランで働いている。「ほんとうは困ってなんかいないのかもしれない」というのはマレーシアとインドネシアで強く感じてきたことであり、パキスタンでは、困っているみたいなんだけれど誰もそれを真剣に考えていそうにないし、それを真剣に考えるほど国を愛している人が見当たらなかった。そりゃそうだ。いつも乞食をやっていて、裕福な旦那衆がたまに金を出してくれたらそれを着服して国外逃亡する親なんて、誰が愛するものか。

それはともかく、裕福な旦那である日本人(あるいは西欧の人々)が開発途上国をみて、開発途上であるとか、困っていそうだと考える視点や発想そのものが「ちょっと違うんじゃないか」と考えている開発業界人は多いと思う。ただ多額の補助金が流れているので食いついているだけの人がいる、というのも山村に共通している。

稲作のちょっとしたコツを教えたり、多少の台風や地震で壊れない橋をかけたり、まじめに働く日本人の姿を見せて人生設計を考えてもらったり、というのがじわじわと効いてくるのを見て嬉しくなるというのもあるけれど、それは必ずしも「先進国>開発途上国」という枠組みでのみ生まれるのではない。いろんな国に住んでいて、我が輩と家族が生きざまレベルで対等に学ぶことも多かったのだから。東南アジアでは男たちに浮気や博打や過度の飲酒、そして若者に麻薬をやめさせれば離散しないですむ家庭はそうとうあるだろうし、学校をやめないですむ子供たちの数も減ると思う。でもイランのように、仕事より楽しいことを優先させるとか、パキスタンのように雨がふったら仕事を休むとか、インドネシアのように日曜の夜中まで遊んで月曜日は朝一番で病院に行くとか、それでも社会がなんとなく機能しているのはいいのかもしれないと思う。 そういう社会がゆっくりと尊厳死なんか迎えずに、何百年も生き延びたりしているのだ。

開発業界というのが善意とか正義の味方ではなくて(麻薬拡販や戦争目的もふくめ)西欧の市場開拓だった、そして日本の開発業界もどうやら市場開拓の方向にむかいはじめている。1980年代の別荘ブームを経験した長野県諏訪郡原村の人は、「われわれはすでに街の人たちとの軋轢を経験しました」というけれど、どうやら街出身者と原村出身者は交わらずにモザイクみたいに分布しているようだ。西欧と開発途上国もモザイクになるのかもしれない。ニューヨークのように。

2015年5月16日土曜日

アフガンのこと。平和部隊のこと。

アフガンの人口統計で2002年までのぶんが見つからない。ないのかもしれない。

アフガンは1973年7月まで王政つまり封建制度だった。ということはいわゆる近代国家になったのが1973年。それまで人口統計がなかったとしても無理はない。近代化されて6年後の1979年12月にソ連軍侵攻、それにひきつづくほぼ戦争状態が今にいたるまで続いているので、2002年まで人口統計がなかったとしてもしかたがない。

人口統計だけではなくて、アフガンが内戦のない共和国らしい共和国だったのがたった6年間だったのであれば、民主主義なんて根付くわけがない。まるでロシアが1917年に封建的農奴制からいきなり社会主義国家になったように。ソ連の場合、革命の内戦状態からレーニンが勝って、それからスターリンになり、第2次世界大戦でナチと戦い、戦後フルシチョフになって、ゴルバチョフのとき1991年12月にソ連が崩壊。ロシアだって民主主義っぽくなったのはここ20数年にすぎない。エリツィンのときには「ロシア政府はエネルギー産業の政治部門にすぎない」と言われた状態だったので、民主主義が機能していたかどうかも定かでない。

ソ連がアフガン侵攻したのはブレジネフのときだそうだけれど、勝てなかった原因は、気候とかアフガン人のことがよくわからなかったからだと言われている。

民主主義については、アメリカだって偉そうなことは言えない。黒人にまともな権利が認められたのは1964年なのだ。今に至るまで運転免許証には肌の色を記載する欄があるアメリカは、人種差別主義国家であり続ける。バラク・オバマはアメリカ史上初の有色人種大統領だそうだが、運転免許証の肌の色の記載事項を問題にすらしない鈍感さは白人そのものだ。求人の際に年齢、性別を記載できない国なのに、免許証に肌の色を記載することを許す不思議さ。この鈍感な国が民主主義を広めるという旗のもとに世界中で戦争するのだ。

アメリカに平和部隊(ピースコープス)というのがあって、日本の青年海外協力隊みたいなものなのだけれど、この組織の歴史を眺めるととても面白いことに気づく。
最初の派遣国は、アフガニスタン、ベリーゼ、ボリビア、ブラジル、カメルーン、コートジボワール、キプロス、ドミニカ共和国、エクアドル、エルサルバドル、エチオピア、ホンジュラス、イラン、ジャマイカ、リベリア、マレーシア、ネパール、ニジェール、ペルー、シェラレオーネ、ソマリア、スリランカ、セネガル、タイ、トーゴ、チュニジア、トルコ、ベネズエラ。派遣開始当時の派遣者数は2816人。

アフガンは設立当初からの派遣国。1962年にはじまり1979年に終わるまで、1652名を送り込んでいる。おやおや、「平和部隊」なんて名前やけど、当初からの派遣国の多くで、というか半分以上が紛争国になっていて、明らかにアメリカの介入で悪化している。ということは、平和部隊ではなくて、平和を壊してアメリカの国益に服従させるためのスパイ養成機関と断言していいのではないか。どおりでボランティアのはずなのに、身分保障とか、兵隊なみにしっかりしているわけだ。

こんなことを調べ始めたのは、2012年9月に在リビアのアメリカ大使クリス・スティーブンスがベンガジの総領事館で殺され、彼がモロッコ派遣の平和部隊OBであることが報道にのっていたから。2011年に始まったシリア内戦の反政府軍への武器供与のハブのひとつがベンガジといわれていた。大使閣下であり、アラビア語に堪能な彼が、なんでベンガジ領事館にいて殺されたのか、いまだによくわからない。いやいや、わかっているけれど言えないのだろう。

平和部隊は派遣地の言語を学び、派遣地の地面に近いところで活動する。そうしてその国の歴史や人々がなにを考えているかを会得する。アフガンに1652人も送り込んでいて、そのなかにはCIAとか軍隊とか外務省に就職するOBも少なからずいるだろうし、政治家になっている人もいるかもしれない。アフガンのことを地面レベルでよく知っているはずの人間をこんなにたくさん抱えたアメリカが、土人相手の戦争に勝てない? アフガン人の気持ちをわかっていない?歴史や制度や伝統についてよく知らない?まるでソ連じゃないか。おかしいと思いませんか?

2015年5月15日金曜日

在日朝鮮・韓国人2〜3世のこと。アフガン難民2〜3世のこと。

アフガンに旧ソ連軍が侵攻したのが1979年12月。翌1980年からアフガン難民が流出。そしてすでに35年。イランでは難民2世や3世が誕生し、親の祖国を知らないこどもたちがすでに成人しています。そのことを考えるたびに、我が輩が生まれ育った故郷を思い出します。

我が輩の故郷は関西の海沿いで、小学校のクラスメートは金井、金本、金田、木村、新井、新山、夏山などなど。金田くんの家に寄ったら、金田くんとおばあちゃんが話す言葉は我が輩の知らない言葉だったりしました。
それのみならず、そのほかに少なからぬ人数のこどもたちが同和対策地域の出身者。彼ら彼女らは放課後に我が輩の知らない塾みたいなところに通い、勉強をよく頑張って成績のよいこどもたちがたくさんいました。彼ら彼女らは日本人なのに日本人としての扱いを受けなかった、いまの用語で言えばIDP (Internally Displaced People) といっていい存在です。

イランでもそうですが、国籍・出自を問わず、地域のあらゆるこどもたちにちゃんとした教育を受ける機会を無償で与え、場合によっては公的機関やNGOがそれ以上のものを与える。このことは数年後から数十年後の共同体にとって、じわじわと効いてくるものがあります。いま我が輩の故郷が、かつて酔っ払いが立ち小便をしたり下品な関西弁で喧嘩をしていた粗暴なスラムではなく、ずっとマシな地域として認知されているのも、暴力教師もいたけれど、当時の学校の多くのまっとうな先生たちの努力の結果だと思います。

神戸でも震災で壊滅的な打撃を受けたような、同じような地域を知る同学から学んだのは、少なからぬ「在日僑胞」たちが朝鮮総連と民団の両方に属していたらしいこと。我が輩が知るのは、そういう地域が創価学会と共産党の勢力争いの場だったことくらいですが、総連と民団の両方に属するっていうのは、まるで創価学会と共産党の両方に所属している?っていうくらいの驚きでした。しかし生き延びるための知恵として、悩むない選択だったのでしょう。

2世〜3世たちのことを皮膚感覚で知る世代として、10代の終わりころに2世と「いつになったら日本人が朝鮮人のことを理解するのだろうか」と夜更けまで語り合ったこともありました。 「在日2世というのもアイデンティティーのひとつとして開き直ったらいいんじゃないか?」という我が輩に、「そんな簡単なものじゃない。」とも言われました。

しかし韓流ブームがやってきて、夜更けのため息とともに吐露された思いが津波のように洗い去られ、そのブームもあっというまに小さくなっていまの嫌韓ブームです。

これには本国の責任が大きいよね。サルフの戦いの時代とまったく同じことを繰り返しているんだから。俺もう知らないよ、勝手にやってくれ。2世3世4世も同じ考えじゃないかな。やつらもうとっくのむかしから日本人そのものなんだから。

アフガン難民のこと。パキスタンに逃げた人たちとイランに逃げた人たち。

仕事がらタイトルみたいなことを調べる機会がありました。ざっと書くと、1980年に始まったアフガン難民。国民の1割くらいの、半分がパキスタンに、半分がイランに逃げました。パキスタンでもイランでも最盛期には300万人くらいを受け入れていましたが、UNHCRなんかが頑張って帰還運動をして、いまはそれぞれ100万人くらいに落ち着いています。しかしイランとパキスタンではアフガン難民の身の上はぜんぜん違います。

イランでは登録されたアフガン難民は、公的医療補助もあるし、無償で学校に通うことができます。なかには無償で博士号まで取得した若者もいるくらいです。教育をあんまり受ける機会がなかった人たちでも、組織的に土木工事や清掃事業などの仕事に就くみちがあります。パキスタンではハザールに見える(ハザールにしか見えないとも言われた)我が輩がテヘランの路上を歩いていて、道を尋ねられたり、工事現場を通り過ぎる時にじっと見られ、イラン風じゃなくてアラビア風に挨拶をしたらアラビア風に挨拶を返して、なんだかフレンドリーな表情を見せてくれるのがそういう人たちなのでしょう。

いっぽうパキスタンのアフガン難民。イスラマバードに巨大な難民キャンプがありますが、悲惨な状況です。1983年に降り立ったムンバイ空港の、飛行機進入経路の真下に広がる泥色のアウトカーストのスラムを思い出しました。道路にラクダを座らせて女性がラクダのミルクを売っています。こどもたちが物乞いをしています。
パキスタンには1980年から1998年にかけて、推定15億ドルの難民援助資金が西欧から流入したとか。つまりパキスタンの態度は、金をくれたら難民受け入れますぜ白人の旦那衆さま、てか。金が出たら難民数が上昇し、金がなくなったら帰還運動。しかしその援助資金が難民対策にちゃんと使われているとはとても思えません。合法的に移住権を与えた人数はイランの1/3。もしお金がちゃんと使われていたら、難民キャンプがあんなスラムであるわけがない。つまり西欧の援助資金は、政権の偉い人たちのポケットを通じてスイス銀行とかケイマンアイランドのタックスヘブンに流入したのでしょう。

パキスタン人の識字率が40パーセント代。これは公的数字なので、実際はもっと低いといわれています。バロチスタン州の女性に限ると20パーセント代という話もあるくらいです。パキスタン国民ですらそうなのですから、アフガン難民に対する無償教育なんてあるわけがない。西欧資金(のほんの一部)で作られたマドラサという、多くの場合モスクにくっついた学校がタリバンの温床になった、というのは記憶に新しいじゃありませんか。

世界有数のタール炭田があっても掘る金がないパキスタン。鉄鉱石鉱脈が見つかったのに掘る金がない可哀想なパキスタン。イランから天然ガスを引っ張ってきたいのに、パイプラインを作る金がないみじめなパキスタン。水がないのに、水源を憎きインドに押さえられているパキスタン。そんなパキスタンに優しい手を差し伸べているのが中国。石油輸入大国の中国は、湾岸王様諸国から買った原油をパキスタンの西の端のグワダルという港で精製し、高速輸送路で新疆ウイグル自治区のカシュガルまでまっすぐ運んだら、インド南端をまわってシンガポールの海峡を通って上海に陸揚げする2ヶ月ルートにくらべ、40日で中国の工業地帯に運ぶことができるそうです。

てなわけでパキスタンは乞食国家を卒業し、栄えある中国の第7の少数民族自治区へ昇格。それって昇格なのか降格なのか。第6番めじゃないのか、って?

第6番目は朝鮮でしょうが。

過剰適応は日本人の特性なのか

「中華喰うか」にもちょっとだけ書いたのですが、在外日本人学校の生徒会の民主的立候補イシュー。たぶんマネジメント(海外日本人教育組織たら校長会たら)のレベルでは、民主制と民主主義の手続き(というか手続きそのものが民主制度のキモということ)を理解させるために生徒会を組織して生徒会長を自主的民主的自発的に選出させたらよろしい、という程度のことなのでしょうが、それが最前線の先生になると、事実上候補者が数人規模で、みんなが自発性をもたってなきゃならんということになっているのかもしれません。
肩抱きにして「たのむよなぁ、自発的に手を挙げて立候補して欲しいんだよね。それが大オトナになるってことなんずら。」というのは我が輩の勝手な脚色ですが、そこまでなっちゃうと制度的な矛盾が集中した前線で、そもそも制度側に属する問題をワーカーレベルに押し付けるというワターミとかスーキヤのように黒認定されてしまいます。

さらに飛躍すると、日本の公教育のよさである先生の安定品質。パキスタンなら高卒程度で学校の先生をやっている人が多いなか、日本ではたいそう昔から、ちゃんとした大学で教員免許を取得して、難関の採用試験に通った人だけが先生になる。そして日本人じゃなくてもそこに住んでいるだけで(給食費とPTA会費以外は)無償で初等・中等教育を受けることができる。この世界に誇るべき教育制度の波及効果が現場に現れています。

我が輩の世代でも、教員免許コースをとる学生は、安定を求めていました。教員になる学生は、ごく少数の熱血志向以外は大多数が安定志向。大きな組織に何十年も属することを求めていました。その重層蓄積の結果、マネジメントの意向に過剰適応する現場を生み出したんじゃないかな。

過剰適応はなにも日本人だけではありません。中国では清朝の康煕・雍正・乾隆の時代、満州族の過去を語るなとマネジメントがいうので、現場はこぞって訓詁学に邁進しました。これもいわば過剰適応じゃないのかな。ちなみにこの時代に隅っこで息をしていた朱子学たら陽明学は日本に入ってこれまた過剰適応の結果、明治維新の時代の思想潮流のひとつになったらしい。儒教に過剰適応した本家はなんといっても朝鮮。南朝鮮なんていまだに事大主義がもこもこ勃起してそれでなくてもややこしい地政学的立場のややこしい人たちを混乱させています。

クールジャパンっていうのも過剰適応のポジティブな面だよね?

なんで日本だけイラン経済制裁解除前夜のバスに乗り遅れているのか?

商社筋の情報によると、エネルギー業界なんてドイツのジーメンスとかフランスのアルストムは、イランのどの発電所にどんな機材を納入する機械のスペックをことごとく相手がたと話し合って決めてしまっていて、日付だけ空欄にした契約書を作って6月30日を待っているのだそうで。
そんなことを聞いたもんだから、「なんで日本だけイラン経済制裁解除前夜のバスに乗り遅れているのか?」というのをそのまんまグーグルに入れて調べたところ、どうやらオーストリアに信託基金を作ってオフショア取引をやっているのだとか。森と湖水の国オーストリアの法律では信託組合の情報は一切非公開にできるのだとか。
てな話がHidden Treuhand: How Corporations and Individuals Hide Assets and Money という本に詳しく書かれているのだとか。それで戦争屋ディック・チェイニーがCEOをやってたインフラ企業ハリバートンもそれを活用しているのだとか。

我が国政府と経産省と日系企業だけが過剰適応しているのかと思ったら、過剰適応もあるんだろうけれど、抜け道を知らなかったという話でした。

我が輩が昔いた建築金物業界では、ヒルティという会社が世界的に有名です。工学博士を200人くらい雇っていて、いろいろなアイデアをナンチャッテ級も含めばかすか特許申請をやっちゃう。その会社がいつのまにかMBO(自社株を買い取り)で非公開企業に逆戻り。ヒルティもオーストリアに本社があります。その会社について調べた頃から、オーストリアは森と湖水と黒金融の国、という感じがしておりました。

ゴルゴ13も得意顧客のスイス銀行が、ナチ絡みで情報公開を迫られすっかり優位性をなくした、その市場の隙間にオーストリアがひゅるりと入っていたということでしょうか。

経済制裁

4月28日付でJOGMECがとてもわかりやすいペーパーを公開しています。
https://oilgas-info.jogmec.go.jp/pdf/5/5942/1504_out_j_iran-russia_sanctions.pdf
https://oilgas-info.jogmec.go.jp/pdf/5/5911/1504_b04_motomura_ru_ir.pdf

経済制裁とは何かという考え方にはおもに2種類あって、
ひとつはこのJOGMECのペーパーみたいに、対象国の政策を変えさせようとするもの。例として南アフリカのアパルトヘイト政策を変えさせるための経済制裁。これは効きました。
もうひとつは、戦争じゃないけれど相手国に「これは戦争のひとつ手前なんだよね」というメッセージを伝えるための経済制裁。アヘン戦争とかアロー号事件の(西欧世界が)野蛮だった時代なら、筋の通らんインネンつけて近代兵器で相手をフルボッコして領土をぶんどったんだけど、いまはそれよりほんのすこしだけ(ベトナム、アフガン、グレナダ、セルビア、パナマ、イラク、ウクライナ、イエメンをみたらどないちゃうねんと言いたくなるけれど)UN戦勝国組合とか作ったので、普通の状態と戦争状態のあいだに位置するのが経済制裁、ということらしい。

いずれにせよ上記JOGMECのペーパーにも書いてあるけれど、対イランの場合も対ロシアの場合も経済制裁は相手国の政策を変える効果はまったくなくて、ほとんどはアメリカとEUが市場とビジネスチャンスを失うきっかけになっている。その上に、相手国の国民すべての世代とすべての階層にアンチ西欧感を根付かせ、西欧の醜い魂胆をとてもわかりやすく世界に広布し、マスメディアのお馬鹿さ加減を広く知らしめることになっている。